第一部 さまざまなる序章
 
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     1 スカンジナビア航空機
 
 まだ、雪の残る青い富士が、浮き上がるように美しかった。 
 昭和三十六年(一九六一)四月二十一日夕方、北廻りスカンジナビア航空機は久しぶりに故国に帰る多くの旅行客をのせて、木更津上空から大きく翼を旋らせて、羽田空港へと機首を向けた。 
 もう三十分で故国の土が踏める。 
 海外からの帰国者に特有の、あの熱いような郷愁かじ-んと湧き上がってくる一瞬だった。島影が濃くなってくる。房総であろうか。化粧室へ立つ人もせわしく通路を歩く。
 「アテンション・プリーズ・・・・・・飛行機はやがて着陸態勢に入ります。税関での通関書類の記入はお済みでしょうか。別送品のある方は二枚の用紙を御用意下さいませ」
 いきいきとした声で日本人スチュアーデスがこまごまとした注意をつづけていく。どの旅行客も楕円形の窓を通して、もうぐっと目の前に迫った大きい日本列島のそのどこかで待っている歓迎の人垣を見つけ出そうとするかのように目をこらす。声にならない浮き浮きしたざわめきが機内にあふれる。やがて「ノースモーキング」のサインがシートの前につく。シ−トベルトを締める金具の音が小さく交錯する。キーンというエンジンの音は徐々に旋律をかえていく。
 パリから帰る小池勢津子は、そんな空気にいくらか抵抗したい気持で、見るともなく海を見ていた。東京目黒の内科医院の二女、語学が得意。画家の叔父を頼って二年間のヨーロッパ。もともと絵や歌に志望があるわけでなし、ただ暮した、という以外に何をしたということもない。が、エトランゼの青春は楽しかった。甘美なりし無責任の自由よ。帰れば平凡になるだけだな、と思う。わざと誰にも今日の帰国を知らせてない。そんなことくらいが平凡への挑戦だった。
 勢津子はその時、不意に隣の座席から声をかけられた。頬のこけた中年の男だった。 
 「失礼ですが、お願いしたいことがありまして・・・・・・・」
 押しつぶすような低い声であった。男のことばはよく聞きとれなかったが、ふりむいた瞬間に勢津子はふと、この男は自分と同じような反逆者ではないかという気がした。
 「私、今ですね、大切な物を持っているんです。非常に大切な物です。ところがそれが税関で押えられる心配があるんです。いえ、決して私のためじゃない、真面目な目的でどうしても私はこれを国内に持ち込みたい。そう思っているんです」
 「・・・・・・・」 
 「そこでお願いしたいのですが、この品物を少し分けて持っていただけないでしょうか。あ、品物の中味は、あなたに御迷惑がかかるといけないのでわざといいません。大丈夫です。禁制品じゃありません。珍しいだけなんです」
 「・・・・・・・」
 「品物は一ダースの箱に入っています。いや、小さいものですよ。私がこれを十個持ちます。あたたが二個だけ持っていただけないでしょうか。そうすれば私の分が押収されても、十個という数なら税関はそれで全部だと思う。あたたの分だけは助かるかもしれない」
 男は一気にいった。
 突飛ないい方に勢津子は多少戸惑って男の顔を見た。
 「ぜひ、お願いできないでしょうか」 男はもう一度いう。それは特殊な雰囲気だった。悪意や犯罪の匂いとは違うようだ。真面目な顔をしている。どうせ出迎えの予定もない勢津子の胸に冒険心が顔をのぞかせた。興味が湧いた。
 「爆発したりは、しないのね」
 「そんなものではありません」
 「それじゃ、いいわ」
 こんな帰国も面白かろうと勢津子はスリリングな場面を想像した。
 男が座席の下のカバンから取り出した箱は、タバコのケースよりはほんのちょっと大きめなボール紙のもの、レッテルも何も貼ってない粗末なつくり。別に何だろうとも思わなかった。勢津子はさりげなくその二箱をグリーンのオーバーのポケットに滑り込ませた。
 税関は勢津子から先に通った。鳥が立つようにして帰って来た独身ものの旅行カバンの中は簡単で、税関はカバンの中のスイス製の腕時計と、勢津子が兄への土産に買った西ドイツ製の電気カミソリをつまみ上げて念のためにその値段を確かめただけで、オーバーのポケットまで調べることをせず勢津子を通過させた。ずっとおくれてこれを見ていた黒いオーバーの男は、しばらくしてから極めて落着いた足取りで税関の前に同じようにカバンをひろげた。大きい旅行カバンと小さい手提げカバン。ボール紙の十箱は、小さい手提げカバンに五つ、オーバーに五つ入れた。
 「旅行コースは?」
 「モスクワ、コペンハーゲン、羽田」
 「モスクワ滞在は?」
 「えゝ約一カ月」
 世界で一番厳格だといわれる羽田税関も、香港経由でない飛行機にはわりにうるさくない。書類や身の廻り品の多いこの荷物を一わたり見渡しただけで、税官吏はかなり機械的に四角い浅黄色のスタンプを二つのカバンにぽんと押した。
 税関のガラス扉を出たところに勢津子が立っていた。
 「あまりスリルはなかったわね。あたたの方も無事だったし」
 少し不満の表情だった。
 押しいただくようにして手に戻ったボール箱を大切に抱えて、男は晴れ晴れと説明した。
 「自己紹介します。私は東西貿易をしているちっぽけな会社、イスクラ産業社長の石川士郎です。あなたにお力添えをいただいたこの箱の中味はソビエトのボンボン生(なま)ワクチンです。小児マヒの予防薬、特効薬です。私は今度モスクワでやっとその輸入契約をとりつけまして、これはその見本です。それと仮契約書を持ち帰ったんです」
 「それをどうするの?」
 「ただ飲めばいいんです。おいしいんですよ。普通のアメ玉なんですから」
 「飲めば、小児マヒがなおるの?」
 「いえ、小児マヒにかからないんですよ、予防薬です」
 「あなたはこの薬を、どうするの?」
 「あらためて堂々と厚生省に提出しますよ。商売人としては大へんな先手です」
 石川士郎は興奮していた。説明は少しとびとびになる。せめてものお礼にといった格好で、ポケットからモスクワの粗末なタバコの包みを出して相手にすすめ、自分もさながら凱旋将軍のように深々と一ぷく吸い込んだ。
 (おれが一番乗りだぞ) 石川は胸一杯にそう思った。煙草のけむりが二人の頭の上で溶け合うところで、二人は共犯者の表情でにっと目を合わせた。勢津子はそこでちょっとしなをつくると、そのまま空港のロビーの人混みの中にゆっくりとまぎれて行った。それと入れ替わるように雑踏の中から社長を見つけ出した二人の社員が石川を目ざしてかけよって来た。
 
 石川士郎氏と小池勢津子さんの二人の話を綜合して、すこし小説風に書いてみたが、これが、それから七年後日本の小児マヒを根絶することになったソビエトのボンボン生ワクチンが日本に持ち込まれた最初の光景であった。この時石川氏が持ち込んだボンボンは一箱百個入り、合わせて一二〇〇人分。ソビエトの輸出入公団(メディックス・ポルト)から将来の大量輸入のための仮契約の見本として持ち帰ったものであった。
 ソビエトからの小児マヒ生(なま)ワクチンの持ち込みには、二つのルートがありえた。一つは総評と全ソ労働組合中央評議会(JOCCTU)のルート。もう一つは前記メディックス・ポルトと日本の貿易商社とのルートであった。生(なま)ワクチンの持ち込みは決して石川氏が最初ではない。前年の三十五年九月、モスクワの見本市に経済使節団として訪ソした国会議員団が、日ソ協会あてに六〇〇人分の原液を預かって帰ったのが最初で、それから一ヵ月後に貿易商社日商がサューズ・ヒム・エックスポート(全ソ化学品輸出入公団)との間に十五万人分の輸入契約をした。さらにその後一カ月して、JOCCTUから総評に対して生ワクチン十万人分を送るという申し出もあった。しかし厚生省が中し入れを受けいれたのは石川氏より一ヵ月後であり、のちにこの夏日本中の子供たちが飲んだボンボン生(なま)ワクチンの持ち込みは、この時の石川氏が最初であった。
 あとから考えればこれほどの警戒心が必要であったかどうかについても議論はあろうが、のちに一三〇〇万人の生(なま)ワクチン緊急投与が世界初の大ニュースとして話題となった事情を考えるなら、社員三人という吹けば飛ぶような小商社の社長が、最初のボンボン生(なま)ワクチンを必死の形相でオーバーのポケットに忍ばせて持ち込んだという光景には、あの年、日本中を捲き込んだ小児マヒ騒動のなまの姿が浮き彫りされているといえるだろう。
 この頃を挟む前後一年の間には、日本の子供と母親、学問と社会と政治とマスコミの中に、世界と歴史に対して記録さるべき小児マヒとのたたかいがあった。そしてそれは疑いもなく世界で初めての輝かしい勝利の記録であった。特にここでつけ加えねばならないのは、実はそれからさらに六年間、小さな真面目なグループの間で粘り強い努力が黙々と続けられ、それによって世界初の小児マヒ根絶という夢の結論がついに今、確認されるに至ったということであを。その報告を書くべき時が今こそ来た。だから、ここに登場する人物はすべて実在実名である。多少無礼に書かせてもらおう。     
 
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