2 北海道の悲劇

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 話はそれからほぼ一年前に戻らなければならない。昭和三十五年(一九六〇)六月。北海道大夕張。三菱鉱業の炭鉱町で、その従業員が九〇%を占める人口二万足らずの山奥の町である。夕張岳のふもとにひろがるこの炭柱街では、あと二日後に迫った年に一度の山神(さいじん)祭の準備で、人々の心は浮き浮きしていた。
 なにしろ、ここは陸の孤島といわれる辺ぴなところ。札幌から直線ではかれば六〇キロだが、自動車の入る道はない。わずかに会社の鉄道が一本あるだけ。土地の楽しみは少なかった。まじめな斉藤三千男さんは、山神祭の日、永年勤続で会社から表彰されることが内定していた。「いいことが二つ重なった」と妻のトクさんと喜んだ。
 その十三日、目の中に入れても痛くない末っ子の四つの美紀ちゃんが、昼ごはんのとき茶碗をとろうとして伸ばした右手をガクンと前に落として転んだ。トクさんは腕が抜けたと思って、いそいで夕張市の病院へつれていった。会社の鉄道とバスをのりかえて、四時間もかかって病院へ行ってみると、医者の顔がきびしく曇った。聞いたこともないポリオという病気、伝染病だという。
 ほかの人にうつしてはいけないといわれ、保健所からの指示で帰りの鉄道は貨車を一台石灰で真白に消毒され、トクさんと美紀ちゃんは手をしっかり握りながら真暗な気持で帰って来た。つくとすぐ山の上の隔離病院へ。それは鉱業所病院の長い廊下の奥の古びた木造の一棟だった。途方にくれた母親はぐったりと腰をおろした。
 美紀ちゃんは、まもなく、右足も動かなくなってしまった。三千男さんの表彰どころではなかった。
 

 札幌医大の金光正次教授が大夕張にかけつけたのは、これからほぼ一週間あとだった。どうもおかしい、大夕張にポリオが流行しているのではないか。教授は断片的な情報をそう判断した。医大には大夕張からポリオ患者がつづいていた。その中には死亡患者もあった。付添いの親たちの話では、なお大夕張に同じような患者の発生があるようだった。
 とにかく行ってみなければならない、と教授は考えた。日曜日であった。
 鉱業所病院の清水院長の出迎えをうけて隔離病棟に入ってみると、大人用のベッドに五人の子供が寝かされ、かたわらに不眠の看護と不安にやつれた母親が付添っている。どの子供にも手か足に明らかにマヒがあらわれていた。両足と片手をおかされた子供もいる。一番重症なのは一歳五ヵ月のM子ちゃんで、マヒは片手だけだが熱は三十九度をこえ、呼吸は浅い上に不規則で、すでに呼吸マヒの徴候もみえる。危篤であった。酸素吸入器をわが子の口もとにかざしながら母親が訴えた。
 「四日ほど前に熱がでたのでお医者にみせたら、風邪だといわれたんです。すると、おとといになって急に熱が三十九度出て、からだがふるえるんです。驚いてお医者を呼んだらやっぱり風邪で、扁桃腺も悪くなっているといわれました。ところが今朝になったら左の手がだらりとなって動かせなくなってしまったんです。時々吐きます。すぐ病院につれてきたら今度は小児マヒだといわれてカクリに入れられました。先生、もっと早くわからないものなんですか」
 すでに答える言葉はなかった。
 金光教授は医局にもどって、その日までに入院したポリオ患者の病歴をしらべた。
 今年になってポリオと診断された患者は七名で、この他にも土地の医院で疑似小児マヒで死亡した者が一名いる。さらに札幌医大を訪れた患者もいるし他の病院に行った患者もいるに違いなかった。これらの患者の数を合わせるとかなりの数になるはずだ。小児マヒの流行かもしれない! 金光教授は清水院長に事態の重大なことの判断をのべ、保健所に早急の防疫対策を申請すること、患者は早く隔離すること、幼稚園や水泳プールの閉鎖をすること等を依頼し、入院患者から採った血液と糞便を持って急いで札幌に帰った。駅まで検査材料を届けにきた病院の看護婦さんは、M子ちゃんが息をひきとったと告げた。
 札幌医科大学で直ちに血液の抗体測定と糞便からのウイルスの分離がはじめられた。五日後、四名の血液にT型ポリオウイルスに対する抗体がめだって高いことが示され、さらに数日して、同じ患者の糞便からそろってT型ポリオウイルスが分離された。以上が金光教授の報告である。疑いもなく、これは最も悪質なT型ポリオの流行であった。
 
 これがわが国の小児マヒ流行史上最大の、昭和三十五年北海道大流行の序章の姿であった。
 この北海道大流行の足どりをやや詳しくいえば、はじめ夕張地区で二月末に一人の患者が発生したのに続いて、三月、四月に一人ずつ患者があり、五月末には一度に三人の患者が出ている。そして六月中旬から下旬にかけては夕張、歌志内、長沼、浅川、曲川の各地区に何人かずつの発生がみられた。つまり、北海道中央部では五月末から流行の兆をみせていたことになる。それ以後、ポリオは、夕張市を中心として南北に遠心的に流行をひろげ、石狩、空知地区を中心に北海道中央部をほぼ南北に貫き、北は中屯別、湧別周辺、南は日高、室蘭周辺に達するのである。特に流行の中心地大夕張の患者は日一日と増加し、六月末には三十三名、死者は九人に達した。ただ手遅れであった。これからの予防にはほとんど決定的な決め手もなく、鉄の肺も北海道全体でたった一台あるのみであった。大夕張の人たちにしてみれば、それはあまりに突然な、無抵抗の破滅の訪れであった。医学はこのとき全く無力であった。「ポリオはさらにひろがるだろう」と警告するしかなかったのだ。それまでポリオという言葉すら聞いたこともない山深い大夕張の人たちにとって、その毎日は不安と混乱がつのるばかりであった。そもそもこの地区は環境衛生優良地区として何回も表彰されており、畑に人糞をさえまかせない。ハエもほとんどいないのだ。こんなところにどうしてポリオが出るのか。お祈りやおさすりが最後の頼みの綱となった。六十五歳以上の老婆が総出で患者のいる家を祈とうして歩いた。新興宗教が印刷物を配って「ただわが教祖への信心のみ」とよびかけた。ただの薬草を干したものを小児マヒの特効薬だといって、厚かましくも北海道庁へ持ち込む商人があらわれる有様であった。
 私の会った大夕張のIさんの話をしよう。
 Iさんの家は二五〇〇戸の炭柱街の緩い傾斜を、最後まで下りきった一番奥にある。
 六月十五日の山神祭の前の日に、妻のR子(三十二歳)さんが、風邪だと思っていた容態が急に変わり、吐気と呼吸困難を訴えるようになり早速入院した。R子さんはそのまま明くる日のお祭りの明け方息を引きとってしまった。R子さんは妊娠五ヵ月だった。あまり突然の死で、夫のIさんは妻の死に目にも違えなかった。
 おまけに、その死因が小児マヒだという。Iさんは納得できない。
 「病院じゃあ、伝染病だから遺体はすぐに引きとってもらいたい。車は貸せないというんですよ。仕方がないので折角のお祭を楽しんでいる近所の人を頼んで、泣く泣く妻を戸板に乗せて家に帰りました。」 丸顔のIさんは、大きい目に涙を一杯浮かべて、いつまでも納得できずにいると話す。「家へ帰ったら保健所の人が、伝染病だからすぐ焼いてもらわねばこまると、きつくいいます。R子が嫁に来て一回も手を通さなかった晴着まで、目の前ですぐ消毒。線香をあげているその敷台にまで真っ白く薬をかけられるんです。そんなことって……」 突然の凶悪な悪魔の襲来は、この平和な家庭をわずか一日半の間に破壊しつくし、Iさんに妻の死を静かに悲しむ余裕すら与えなかったのだ。
 三十二歳の大人があっという間に小児マヒで死亡したという出来事は、大きい混乱を周囲に与えた。人々はR子さんの小児マヒをお腹の胎児に結びつけた。大人が小児マヒにかかるはずはないのであろうから、きっとお腹の子供がまず小児マヒにかかったので、やがてそれが母親に伝染し、子供といっしょに命をおとしたのだろうという理解だった。
 はじめて母になる日を楽しみにしていた一人の妻が、年に一度の山神祭の祭囃子の陰で胎内のわが子のために共に命を落したのだという説明は、近所の人たちにあらたな涙をさそった。
 だが、もとより本当はそうではない。小児マヒは決して子供だけがかかる病気ではない。R子さん自身がポリオウイルスに狙われたのだ。
 だが誰も、これを無知だと笑うことはできはしまい。無知だというなら日本中全体が無知であり、人々を無知から救うべき学問も行政も同じように全く無力であった。あるのは混乱と不安だけだった。
 
 北海道衛生部が対策本部を設置した七月七日には、患者の数は前年の七倍の一八二人に達し、もはや患者発生のカーブは抜き差しならない傾向に入っていた。
 大夕張では患者の発生した家の門口には「小児マヒ患者の家」と紙が貼られる有様で、家族は近所から疎遠にされ、出勤や登校もままならぬ。患者の家族に対して公衆浴場に入る時刻を指定したところや、バスの運転手や車掌がワクチン接種を受けるまで流行地域の車に勤務することを拒否した話もあった。大夕張の人が別な土地で住所を書いたら泊るのを断わられたり、海水浴の団体申込がバス会社から断わられたりする話が続出した。プールの水まで抜かれてしまって、遊び場を奪われた子供たちは街角で隔離ごっこで遊ぶ。地面に小児マヒと書いた上を輪になってまわり、ちょうどその上で止まった子供は輪から外されて隔離されるのだ。
 ワクチンを! という叫びは各地からいっせいに起こったが、北海道庁にも厚生省にも十分な用意がなかった。
 夕張市のカトリック教会のベルナルド・ヘスラー神父は、母国の教団から三千人分のワクチンを取り寄せて寄付したが、厚生省の規定ではワクチンの国家検定に最短ニカ月かかり、しかも検定料金として一五〇万円がいるということですぐ使うことはできなかった。厚生省の緊急措置により、北海道に対するワクチンの供給は次第に増やされたが、必要の数にくらべてその量はあまりに少なく、流行地の人たちにできることといえば、家の周囲の清掃や手洗いの励行、飲食物の注意くらいのものであった。
 三カ月も夕張に泊りこんで第一線の指揮をとっていた北海道庁衛生部の中川勇博士は、目をくぼませて頑張った。着たきりの作業服はドロドロで、爪の中まで石灰で真っ白だった。そのままの姿で夜は主婦たちと座談会。倒れないのが自分でも不思議であった。「祈る気持というのがほんとうのところ。取りあえず石灰を、そして早くワクチンを、それしかないですよ。」 おこったように彼はいった。
 やがて自衛隊を使って、大規模な薬剤散布がはじまった。三十台の動力噴霧器を運びこんで、ヘルメットの衛生員が流行地区に四万五千リットルのDDT油剤と二九〇トンの生石灰を散布した。夕張では鶏冠(とさか)の白くない鶏を見つけることがむずかしいといわれたし、実にこの生石灰の量は札幌市の三年分にあたる量であったのである。もとより生石灰はほとんど気安めにしかならず患者の数は増える一方であった。
 恐怖におびえる流行地の母親たちは子供を連れて他の町村へ疎開をはじめた。当局は流行が飛び火するから疎開しないようにと呼びかけるが、逃げる以外方法のないことを知った住民はそれに耳をかすはずもない。しかし、やがて疎開先にも流行がはじまった。そして小児マヒはめぼしい炭鉱街を総なめにして、それに隣合う農村や都市に燃えひろがった。
 患者の発生は七月下旬で一四〇人、さらに最盛期の八月初旬から九月初旬の間には六一三人が発病し、一日の平均発病は十七人というすさまじさ。流行は秋になってもやまず、九月を過ぎても六十人が発病し、ようやく冬の早い北海道の山野に雪化粧をみる十一月中旬、総計一六〇九人の患者と一〇六人の死亡者の記録を残して小児マヒの影は消えたのである。
 それは学問と政治の完敗であった。その猛反省の中からでなくては、次のたたかいは始まることはできないはずであった。北海道で小児マヒの炎が雪の中にいったん鳴りを鎮めるころ、それとは逆に、多くの良心の灯がいっせいに、来年の夏へ向けて燃えあがろうとしていたのである。   
 
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