3 学問の序章

 

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 小児マヒヘの学問の灯を求めるなら、われわれはさらに数年をさかのぼらなければならない。 
 そのころ、一九五五年。
 東京目黒の東京国立公衆衛生院の平山宗宏博士は、一週間にいっぺん産婦人科病院へ出かけなければならなかった。優生保護法で人工流産した胎児の皮膚と筋肉の一部をもらいうけてくる仕事である。 
 実験室に帰った平山博士は、白い上衣にあわただしく着替えて急いで実験にとりかかる。まず試験管に鶏の胎児をすりつぶした液と鶏の血漿を一滴ずつたらし、手早く混ぜ合わせる。すると寒天のようになって、ガラスの壁に糊をはったようになる。そこに、鋭いハサミで細かくきざんだ皮膚や筋肉を二、三片のせ、その上に培養液をたらす。そして三十七度Cに保った卵器の中に入れる。四日から、長ければ一週間くらい置いておくと、そこから黴(編注:かび)のように細胞が生えてくる。百本の試験管に五、六割は細胞が生える。ここでポリオのウイルスを培養しようというのである。これが昭和二十四年(一九四九)にアメリカのエンダース、ウェラー、ロビンスの三人がはじめて見つけ出したポリオの組織培養法で、昭和二十八年秋公衆衛生院の甲野礼作博士(のち京大教授を経て現国立予防衛生研究所)が現地に行って習いおぼえて持ち帰ったばかりの新技術であった。甲野博士はその帰朝論文に「もはやサルの時代は終わった」と高らかに書いたものであった。いちいちサルを使わなくても試験管の中で培養ができれば、ポリオの研究は飛躍的に進む。だがこの新技術にもとづく研究には、若い学究の粘りづよい実験が必要であった。
 その仕事を本格的にはじめたのが平山宗宏博士であった。当時、大学を出てまもなくの平山博士は、情熱をこめて連日十時間休みなしのこの実験に目を赤くして取り組んだ。
 ポリオウィルスは適当な生きた細胞でしかふえられない。組織培養には産婦人科の協力を得ねばならなかったのだ。週に一度白衣を脱いで産婦人科を訪ねる小児科医、これが、日本の小児マヒ研究の本格的な開幕を象徴する姿であった。わが国で平山博士よりもたくさんポリオの試験管を洗った学者はいない。そして、今はその仕事がなくなってしまったのだ。
 
 テンポの差は大きかったが、ちょうどこの年は、世界的にも小児マヒ予防にとってきわめて重大な意味をもつ年であった。
 その二年前一九五三年に、ソーク博士はホルマリンで殺したポリオウイルスを人体に注射して免疫をつくることに成功したが、このソークワクチンをもってアメリカミシガン大学のトーマス・フランシス博士は、翌一九五四年大規模な野外実験をおこない、この年一九五五年四月十二日、その成績が極めて希望的であると公式に発表した。この時アイゼンハワー大統領も特に声明し、ソークワクチンを全世界にも提供する用意があることを宣言したのであった。それは、長い人類の敵ポリオウイルスに対する、晴れ晴れしい勝利の祝砲ともいえる響きをもっていた。
 ところが、フランシス博士の発表の後一カ月もしない内に、とんでもない事故が起きた。それまで注射した五四〇万人の子供たちの中から一一三人の患者の発生をみ、うち五人が死亡した。五月七日に予防接種の一時中止が勧告された。重大事件であった。実は二十年前にもコルマー事件という同じような事故があった。一九三五年にコルマーとブローディーという二人の学者が、猿の神経組織のウイルスをそれぞれ異なった薬剤で処理して作った不活化ワクチンを、一万人ずつの子供に注射したところ、中から発病者が出て、責任を感じたブローディーは自殺するという事件であった。
 しかしコルマー事件の時にくらべて、この度の事故の収拾は冷静かつ科学的におこなわれた。事故はカッター社製のワクチンの中に不活化されないポリオウイルスが残っていたためであることがわかり、それはポリオワクチンの本質的欠陥でないことが明らかにされた。WHO(世界保健機構)をはじめ、世界の小児マヒ医学にたずさわる学者たちは、今度の失敗がもう最後のものであることをかえって確信することができた。
 一方、これとほぼ並行してワクチンの本命、生(なま)ワクチンの研究も進められていた。コプロフスキー博士は一九五二年、弱毒化ウイルスつまり生(なま)ワクチンを人体に与えた実験を報告し、つづいてセービン博士ならびにコックス博士が一九五四年に実験をおこなった。生ワクチンは、ソークワクチンがポリオウイルスを殺して使うのに対して、毒性の弱い生きたポリオウイルスを口から飲ませて先に腸管を占領させ、毒の強いウイルスを侵入させないようにしようとするもの。ソークワクチンと生ワクチンを比較するなら、生ワクチンが小児マヒ予防の本命の武器であることは、ワクチンを学ぶものにとってもう明らかであった。生ワクチンは多くの議論をよびながら、やがて一九五七年には、WH0のポリオ専門委員会でその効果が認められるに到る。ソビエトでは一九五六年にセービンから弱毒ウィルス株を取り寄せてふやし、一九五八年から製造開始にふみきることになるのである。ポリオについて世界の学問はすでに夜明けを迎えていた。
 
 たっぷり数年間は遅れながらも、平山博士が甲野博士の指導のもとに目を赤くしてポリオウイルスの組織培養に取り組んでいたのは、日本でも生ワクチン問題の基礎となる資料を作り出そうとするためであった。この頃彼が得ることのできた情報といえば、アメリカを主とする外国の医学雑誌が月おくれで入って来るだけだった。日本のポリオのレベルのおくれを物語る証拠といえるだろう。この年厚生省は初めて国立予防衛生研究所の北岡正見博士に生ワクチンの研究助成金を出し、つづいて三十三年の末から阪大の西沢義人教授、東京国立第一病院の浅野秀二博士が小規模な生ワクチンの実験に取り組んだ。北海道流行の昭和三十五年まで、厚生省のポリオ研究費はほかの伝染病とコミで二十五万円だった。ポリオの研究対策がこの程度の状態であったのだから、北海道のポリオに学問が完敗したことは当然でもあったといえる。たとえばその証拠として、そのころ東大医学部で使われていた医学教科書には、小児マヒの予防に関しては、わずかに次のように書かれているのみであった。
 「ソークワクチンは有効である。七〇%に効果がみとめられ、二、三年持続するといわれている
 事実、当時ポリオを専門に研究していた学者といえば前記の甲野礼作氏、北岡正見氏、西沢義人氏、金光正次氏、そしてもう一人大阪医大教授の巽稔氏を数えるのが限度であった。平山博士はその若き旗手であったといえるであろう。だから今から振り返ってみても、北海道流行以前に日本の医学誌にあらわれた小児マヒの予防に関する論文は、
 一九五四年「アメリカにおける急性灰白髄炎研究の進歩」(甲野礼作、日本医師会雑誌)
 一九五五年「ソークワクチンをめぐる小児マヒ予防の現況」(巽稔、日本臨床)
 一九五六年「ポリオワクチンのその後」(甲野礼作、公衆衛生)
 一九五六年「ソークワクチンのその後と我国の立場」(巽稔、総合臨床)
 一九五八年「ソークワクチンをめぐる最近の問題」(平山宗宏、医学のあゆみ)
など、この程度の数に限られていたのである。外国の医学論文が一九五四年には「五年前には医師も研究者も一体小児マヒは予防できるかという疑問をもっていたが、今日では完全に予防するにはどうすればよいかという問いに変わってきた」(米国小児マヒ財団指導医・HART E・VAN RIPER)と書いているのにくらべて、日本ではそれからあと七年もたってから、昭和三十六年のポリオ騒動のさなかにウィルス学界のリーダーである千葉大学の川喜田愛郎教授が「正直な話ここに医者が一〇〇人いて、ソークワクチンと生ワクチンの違いを正確に知らない人が十人はいるでしょう」(朝日新聞、三十六年七月八日)と告白せざるをえなかったのだ。ポリオ騒動の真因はそこにあった。
 
 遅れつづきの学界も、北海道の完敗を前にしては、そのままではいられなくなった。北海道の大流行がようやく下火になりかけてきた三十五年十月二十八日、京都で開かれた日本ウィルス学会の第八回総会の最終日に、川喜田教授がみずから司会して、ウィルス学者全員が「ウィルス学の発展のために」というテーマのシンポジウムをおこなった。その中味は北海道のポリオ流行だった。基礎学問に携わっている人々の集まりで、この学会にふさわしい物静かさの中で、しかも激しい熱情をたぎらせながら、学問とその社会的責任について長時間話し合われた。「これだけの流行をゆるしたことについて学問は、別の世界のことだといっておられるであろうか。」
 このシンポジウムをうけたウイルス学会幹事会は、川喜田教授を中心としてこの後十一月はじめ厚生省当局とも話し合いをもち、さらに広く、病理、小児科、伝染病、公衆衛生の各分野の権威を集めた何回かの会合を重ね、やがて十二月十七日、六十名の学者による画期的な「弱毒生ポリオウイルスワクチン研究協議会」を結成することになるのである。略して「生ワク協議会」という。
 この協議会には本来行政上の権限はなかったが、その種のもので従来最大の伝染病予防調査会よりも、顔ぶれや発言力からしてはるかに強大であった。後に組織は二部会から五部会にふくれあがり、参加した学者の数は延べ百三十人に達した。学者がそれも特にやかましい基礎研究の分野でこういう共同研究ができるものかどうか一つの試金石でもあったが、遅ればせながら学界がこぞってこうした組織をつくり上げたことは、極めて異例なこととして注目されねばならなかった。ポリオ騒動の一年半ポリオ学界≠ニいうべきものはこの生ワク協議会以外にありえない。
 もっとも生ワク協議会の結成には、学界がこの社会的緊急課題に総力で立ち向かおうとする正しい姿勢を示していたというだけでなく、立ち遅れた上に多くの意見が未調整のままになっていた学界を、こうでもしなければまとめていきようがない、という悩みが伏在していたことも事実であった。
 厚生省は生ワク協議会にはじめ六六〇〇万円の費用を支出し、後に約一億円を追加する力の人れようで、ずっと後に海外視察団まで派遣したのだが、この複雑で未曽有の寄合い大世帯は、内部にさまざまな意見を渦巻かせながら、社会や政治の動きと後になり先になりつつ、ともかくも三十七年三月まで活動を続けることになるのである。 
 
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