4 進歩派の牙城
 
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 厚生省公衆衛生局防疫課高部益男課長は、省内の進歩派と自負していた。防疫課はいうまでもなく小児マヒ対策の作戦指令部、高部氏は防疫課の性格を省内「進歩派の牙城」だという。ここには高部課長の他に春日斉氏(後の防疫課長)山本宣正氏(後の茨城県衛生部保健予防課長)ら多くの人材が揃い、学問的雰囲気も豊かである。従ってその雰囲気は往々にして、お役所的な在り方を無視して一挙に理想的な伝染病防疫体制を確立しようと意気ごみ、そこで役所的な常識と強く対立することになる。役所的な性格の中心は予算仕事ということだ。役所の中で仕事の重い軽いは予算の大小によって決定される。ポリオ対策についての保守派と進歩派の議論は、やはりポリオについての予算の在り方について長く続けられた。
 厚生省に、つまり防疫課に小児マヒ論争が芽をふいたのは昭和二十五年である。「防疫行政の斜陽化を防げ」ということで予算獲得のために新しいテーマ捜しがはじまった時である。この時ウイルス性疾患が注目されて、進歩派は日本脳炎とならんでポリオをとりあげ、二十六年度予算に研究費を計上したのだが、当時の防疫調査会(厚生大臣の諮問機関で今は伝染病予防調査会)がいっせいにポリオ研究の不必要をとなえ、せっかくの予算を返上してしまった。その後二十六年に流行があり、二十九年にアメリカでソークワクチンの野外実験が成功し、WH0のぺーン博士が来日して日本での小児マヒ流行の危険を警告したことから再び進歩派の勢いが強まり、三十三年六月に調査会から「ポリオ対策を重視すべし」という答申が出されることになった。
 そこで昭和三十四年からはっきり防疫課はポリオでいこうということになり、高部氏と予研副所長の柳沢謙博士が相談して伝染病予測に関する費用≠ニいう予算を計上した。
 ところが三十四年六月に小児マヒを指定伝染病に決めようとした際も、再び調査会から反撃をうけた。この時高部課長はテーブルを叩いた。
 「私はその意見を軽蔑します。この考えが容れられなければ辞職します!」
 ポリオは三十四年六月十五日指定伝染病に決定された。これでようやくカネの目途がついた。
 
 今や予算を握った進歩派は、勇んでポリオ論議に突入したが、このころはやっと日本にソークワクチンが入りはじめた時期で、ワクチン対策を根本から成り立たせるようなデータは著しく不足していた。防疫課のメンバーの中でさえ、生ワクチンの正体がよくわからない。
 「ポリオはハシカなどのようにウィルスに感染すれば必ず発病するものとは全くちがう。千人ほども感染した中から一人が発病するのが特徴である。逆にいえば一人の発病者の周りには千人のポリオウイルス感染者がいることになる」
 「生ワクチンはポリオウイルスそのものの感染力をもっているから、生ワクチンを一人が飲むと、周りの千人にそのウイルスが感染するにちがいない」
 「つまり千人に免疫がゆきわたるわけである」
 「では一万人の子供に生ワクチンを飲ませれば日本中の子供が免疫をうけるのであるか」
 算術はその通りだが、予防論としては暴論である。しかし当時はこれが精いっぱいのレベルであった。かくて北海道の大流行がおきた。同じ年一九六〇年(昭和三十五)にアメリカでは八月二十四日公衆衛生局がセービン生ワクチンの製造を正式に許可し、シビエトでは十二月十二日、チマコフ博士が生ワクチンの人体投与の成功を発表していたのであった。防疫行政のおくれは決定的であった。北海道の流行のあと、翌三十六年夏の流行に対しても、厚生省は結局生ワクチンにふみきれず、ソークワクチンで乗りきろうとする方針を決めた。進歩派には大いに不満があり、他にいろいろの理由もあったが、やはり役所の中ではそれが進歩派の限界であった。ソークか生(なま)かという問題は、それから一年間、あのたたかいのクライマックスまで最大の紛糾の焦点となるのである。
 
 ソークワクチンをもって三十六年のポリオ流行を乗りきろうという方針を決めた防疫課は、三十六年一月から三十七年三月までを一貫する異例の十五カ月予算の編成にのりだし、これを初年度とする小児マヒ防止計画を立案した。はじめ大蔵当局では、「ポリオでは、年間せいぜい三〇〇〇人から五〇〇〇人しか救えない。これだけの金をかけて、しかも数年もかかるというのでは面倒がみきれない」と難色を示したが、結局厚生省の粘り勝ちでその大綱が通った。二億八○○○万円。防疫課にとっては未曽有の大成功であった。
 防疫課は進歩派の象徴としてこのうち六六〇〇万円をさいて生ワク協議会を発足させたのである。一九六〇年(昭和三十五)十二月十七日であった。行政と学問がここでやっと手をとり合ったといってよかろう。進歩派としては、もう外国で理論的にも実験的にも使用踏み切りの結論が出ている生ワクチン投与を、日本でも学界の尻をたたいて急いで結論を出してもらおうと期待したのであるが、生ワク協議会は防疫課の思惑通りにはテキパキと進んでくれなかった。「はじめから文部省の研究とは違います。こちらは厚生省ですから、基礎的なことでなく、あえて目先のことに限って生ワクチンの結論を早く出して下さいとよく断わったのですが、学者の立場となるとそうもいかないんですねえ。」 高部課長はひそかにそういって嘆いた。やっと手をとり合ったといっても、政治と学問は、まだしっくり肩を組む状態にはなっていなかったのである。   
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