5 記者と医者
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 気はずかしいが、このあたりで私の序章を書かねばならぬ。今になって私自身、一番整理できないことは、いつから、何のきっかけで、こんなポリオきちがいになってしまったのか、ということだ。
 たどってみれば、私がポリオという名前をおぼえたのは、北海道流行より約二年前。事件記者だった私は取材中に転倒して左手の指が三本屈伸不能になる傷を負い、東大病院整形外科に入院した。そこにはるばる香港からたったひとりでやってきて入院していた五つの坊やがいた。ポリオで足が動かなかった。足にギプスを巻いた松葉杖の坊やと、手にギプスを巻いた私とは一番の仲よしだった。看病にこられない坊やの両親にかわって、私は坊やの足の回復の可能性をつきつめたが、この子が将来運動会で走れることの望みはなかった。ポリオの悲しさと医学の無力を、私はこのとき深く胸にしみこませたといえるかもしれない。
 やがて警視庁づめの事件記者に戻った私は、もとよりポリオとは無縁となった。しばらくして、ひょんなことから美智子妃の出産取材を担当することになり、それがもとで医学記者となった。北海道流行の半年ほど前である。
 そのころ私の気持の中で、ポリオヘの関心があたかも雨だれの音を早めるように徐々に強く大きく高まっていったのはたしかであった。だがその高まりが、当時の私を取巻くどんな要素によって積み上げられたものであるのか、今となっては自分でもさだかでない。私は思うのだが、死にものぐるいで山を登りきったあとで、どうしてこんなに夢中になってここまで来たのかと思うようなことが世に多いのではあるまいか。
 とにかく医学記者として私はポリオと徹底的に取組もうと決意した。大判ノートに「ポリオ1959」と書いた。
 ところで当時世間で、小児マヒという言葉に恐怖はあっても、ポリオという言葉を知る人は少なかった。大学病院小児科の研究室でノートをひろげて質問する。
 「ポリオウイルスの感染経路は蚊の媒介によるものですか?」
 日本脳炎とポリオをごっちゃにした質問だ。
 「口から入りますな、口から。人間から人間へですよ」
 頭をかくしかない。もっとも、当時ポリオについてのまとまった文献や気のきいた解説書等は見あたらなかった。ポリオについて明快に説明できる学者もほとんどいなかったのだから、記者としてはぶつかってみるより仕方がない。はじめ大教授、大博士ばかりを狙って歩いていたのもいけなかったが、だいたい大先生というものは「知らない」という言葉が使えないものらしく、そこへ真向微塵に切り込まれるのだから大変機嫌を損ねることが多い。
 「素人は口を出さない方がいいね」
 「ははーん、NHKが研究費でもくれるという話かね」
などと皮肉られる始末だ。空振りばかりが多く腹立たしい数十日であった。もうやめようかなどと思いながら、それでもまた思い直しては暇をみつけて歩きつづけたのは、私の中の何が理由であったのだろうか。
 
 ここで私といっしょに、ポリオについての若干の知識を整理しておいていただきたい。
 俗に小児マヒとよばれている病気には、ウイルス性伝染病である脊髄性小児マヒと、これとは全く関係のない脳性小児マヒとが混同されている。
 脳性小児マヒは妊娠中や出産時の事故などから起きるもので、知能障害を伴うことが多く、ウイルスによる病気とは全く別もの。だからこれまでわれわれが呼んできた小児マヒを脳性小児マヒと区別するには、急性灰白髄炎(ポリオミエリィティス・アンテリオール・アクータ)、または略して「ポリオ」と呼ぶことが正しい。われわれも以後「ポリオ」と統一しよう。
 一体ウイルスとは生物と無生物の境にあるといわれるしろもので、素焼の陶器を透すほど微小のもの。特にポリオウイルスはそのウイルスの中でも小粒に属し、電子顕微鏡の力をかりてようやくその正体を現わす。直径約二十五ミリミクロンの球型。ミクロンというのは一ミリの一〇〇〇分の一、つまりポリオウイルスを四万個並べるとようやく一ミリになるという勘定だから、比較でいえば子供の身体の中にあるポリオウィルスの欠きさは、丁度地球にネズミ一匹がいるほどの比率となる。
 人類は太古からこの見えない敵に苦しめられてきた。記録は古い。この極微の悪魔は、奇妙なことに人間の生きた細胞の中にしか棲まず、鼻や口から体内に侵入し、中枢神経を冒して身体をマヒさせてしまうのである。
 数十日の空振りのなかから、素人記者も徐々にそんな知識を身につけていった。そんな一日、私は、コレラの専門学者和気朗博士を訪れた。コレラだろうと何だろうと、この人ならポリオのことがわかると噂に聞いたからだ。研究室はハエよけに二重の網戸が取りつけてあり、靴も履き替えなくてはならない。それだけでも気味が悪いが、黄茶けた綿のつまった試験管が無雑作に並んでいる実験室で、和気博士は弁当をひろげてうまそうに昼飯を頬ばりはじめた。
 「でもよく来てくれました。私は全く専門外なのですが、ポリオが人手不足なので援護射撃ができればと思って、ワイワイいってるだけなのです。しかし、同じ専門外でも学界の事情に明るいのは伝染病研究所の野島徳吉さんですよ。ぜひ訪ねてごらんなさい」
 野島徳吉氏は、博士号の権威を認めず博士論文を出さないという変わった人で、どちらかといえば悲憤慷慨型で皮肉が多い。
 「医学界は意気地がないんだ。私は理学ですよ。理学が医学の代わりをしますか」
 「マスコミは罪ほろぼしでもするつもりですか!」
 聞きしにまさる相当な毒舌だったが、私も今や大抵のことではたじろがなくなっている。かまわず質問をぶつけていく。少しは相手の知識の程度をテストしてみたい気持もある私が、ランドシュタイナーの名前を口にした時、相手は手を上げて質問を中断した。一九〇九年に、ポリオで死んだ人の脊髄をすりつぶして猿の脳に対し、マヒを起こさせた学者の名だ。
 「あなたはそんなことまで勉強したんですか。それじゃうんと協力しなければねえ」
 皮肉屋は立上がって自分でお茶をいれてすすめた。この人の協力で、それから先のポリオ行脚はにわかに空振りが少なくなった。
 それから一ヵ月ほどの問に、私もポリオの研究の現状や外国の事情などについてかなりの資料を集めることができた。調べてみれば、ポリオについては、学問的にはすでに生ワクチン時代にあるといえるのではないか。今やポリオの流行対策ではなくてポリオの根絶≠ニいう壮大な可能性が目前に横たわっていると思えてならぬ。学者はなぜそれをいわぬのか。政治はなぜ逃げるのか。それをつきつめて世論の前に明らかにするのは、記者のすばらしい役割だと私は興奮した。
 平山博士は東大小児科の二階の研究室で、にっこり笑って出迎えた。
 「あなたのことはわれわれの耳にも伝わってきていますよ。いずれお訪ねいただけるかと、楽しみにしていました」
 泣かせるセリフではないか。
 二人は初対面であったのだが、私はもっと早く来ればよかったとしみじみ思った。行きくれた日暮れの山道で、やさしく宿をすすめられたような嬉しさに、質問の矢は激しくとぶ。
 「生ワクチンによってポリオの根絶は可能でしょうか」
 「まさに可能だと思います」
 「歴史的なチャンスと思いますが?」
 「全く同感です」
 応答は全く明快、というにつきる。
 平山博士には、国立公衆衛生院いらいの徹底した豊富な研究の成果を背にした揺るぎない確信があった。ミスターポリオはこの人であったのだ。それを見分ける目を、聞き手ももつまでにはなっていた。この人の語りはやや遅いペースだが、非常に簡潔で無駄がない。太い眉毛と大きな目が意志の強さを感じさせるが、どちらかといえば童顔の印象が相手に安心感を抱かせる。少壮学者として油ののりきった状態だった。自信と闘志にあふれていた。
 ポリオとの対決は集中的な短期決戦でなければならないこと、そしてその成功の可否を決めるのはここ二、三年の間であること、だから強く世論を燃やすことが必要であること。二人は強い共感の中で語り合った。生ワクチンによってポリオが根絶できることを、これほど見事に明快に断言してくれた学者はそれまでになかった。二人は手をとり合うような同志感の中で、同じ色の炎がお互いの胸の中で燃えていることを熱く感じていた。
 すでに落葉して黒い梢ばかりの東大安田講堂前のいちょう並木を、私は薄暗くなった空を見上げて一つ二つと子供のように星を数えながらゆっくり歩いた。
 「やるぞ!」
 闘志というのは、静かで分厚い感動だなと思った。
 京都大学の甲野礼作教授に会うためには、教授の上京の機会を待たねばならぬ。そのチャンスをつかんだのはすでに吐く息の白さが夜目に目立つ頃。本郷の親戚の家を訪ねた。
 「猛犬注意」と書いた玄関に顔を見せた甲野教授は、音にきこえた大教授という予想とは全く違う柔かな感じの中年紳士。ゆっくりと相手の意見を聞き続けた。
 「根絶への見通しは、だいたいそのとおりだと思います。異常体質のもの、それも指で数えるほどのものが残るかもしれませんが、事実上の根絶は可能だといってもいいでしょう。短期決戦は正しいと思います。そう、チャンスは今ですねえ」
 瞑想するような表情で教授の言葉はゆっくりと流れた。
 「確かにここ一、二年が勝負でしょうねえ。僕も全面的にやりますよ」
 千葉大学の川喜田愛郎教授を訪ねた夜も忘れられない。教授は和服姿の温顔そのもので何度も大きくうなずきながら、柔らかい口調で話した。
 「世の中の一般のことは学者にとって無関係だ、学者は純粋に学問だけしていればいいという考え方もあります。それもいいんです。しかし医学者は社会に対して人命の尊重という委託を受けているのです。不幸なことだが、このままではきっとエマージェンシー≠ェ起こるでしょう。それによってきっと生ワクチンを使う事態になります」
 教授はやや斜めに上体を傾けてじっくりと話した。
 エマージェンシー(緊急事態)を口にする教授の言葉は、あたかもその事態に神の手を待つような中世の予言者に似た宗教的な響きがあると私は感じた。
 「おっしゃるように絶対ということがいえない以上、学問的な正確さで根絶を保証はできません。しかし、理論的に正しくもあり、可能性がある以上、あなた方が根絶を目標として世論に訴えていくことは貴重なことだろうと思います。私は無駄な部分でお役に立ちましょう」
 川喜田教授がその後の生ワク協議会で果たした指導的な役割は、学問の社会的責任というものを最も謙虚に勇敢に実行したものといえると私は思っている。
 
 このあとに起こった北海道の流行はショックであった。「しまった!」と私は思った。「この流行は恥ずべきものだ。避けることができたであろうに。」 すでに私も、そのことに責任を感ずる一人であった。
 北海道から帰ってすぐ私は一年近いポリオ行脚の資料をまとめて「小児マヒをなくすために」一〇四ページを書き上げた。その骨子は、今やポリオとの決戦の時期は成熟しており、生ワクチンのいっせい投与によってそれを根絶するチャンスを迎えていること。それは特に日本のチャンスであること。しかし逆にポリオ対策をこのまま放置すれば三十六年夏も同じような流行が起こること。それには学問と政治と世論とが手をつないで生ワクチンの緊急いっせい投与に立上がるべきであるとして、放送はこれをめざして大規模なキャンペーンに入ることを提唱するものであった。ある朝、テレビが美しいチャイムの音を響かせる。全国の子供たちがそれに合わせてボンボンを飲む。ポリオ根絶の一場面、胸を躍らせる想像だった。
 結びの言葉は次のように気負って書いた。「数多い伝染病の中でポリオのみに緊急対策を叫ぶのは公平を失するという批判もあるであろう。しかし他の伝染病と違って、ポリオは今なら根絶可能なのである。学問と政治とこれに世論の参加によって、われわれの社会がこの強敵を根絶することに成功するならば、それは単にポリオだけでなく、おくれた日本の予防医学に輝かしい窓を開くことになると確信するのである。何年か後、かつてわが国には小児マヒといって母親の一番恐れた病気があったのだと、昔話をするような日をぜひ実現しようではないか」
 この小冊子がのちにNHKキャンペーンを牽引する資料となり、光栄にも「上田プラン」とよばれて学者の間で話題とされ、多くの県の衛生部などからぜひゆずってほしいと申込みが来るようになったのは、記者にとって胸の熱くなるような喜びであった。
 ここで「流行」という言葉の使い方について、私には多少の勇気が必要であったことをいっておかねばならぬ。じつはこれについては二つの見方が対立していたのである。
 国際的な学問上の基準としては、人口一〇万人について六人以上のポリオの発生を流行とよぶことになっていた。しかし、実際問題として一〇万人に六人では世間の目にはピンとこない。流行といえば大夕張のような局地的集中発生をさすものと受けとられ、厚生省もまたそういう事態でなければ大騒ぎをしなかった。厚生省の態度もいちがいに非難できない。だいいち伝染病はポリオだけではなく、これ以上に患者が多く発生するものも少なくなかった。だから人目を大きくはひかなかったが、日本中でいえば二、三千〜五、六千人のポリオの流行はこれまでも毎年起こっていたのだ。
 そのことをよく知っている厚生省の防疫官は、世間にポリオ流行の危険を訴える場合、一〇万人に六人では不十分で、どうしても例年をはるかにこえて、万単位の流行の危険の認識が必要だと考えていた。つまりそれが社会常識的にいって流行の尺度であつた。
 これに対してキャンペーンは、あえて例年なみの数千人の線を流行≠ニして社会に主張しようと考えていた。例年どおりだから来年もまた二、三千〜五、六千人の患者は必ず出る。それだけの発生を、十分な予防対策のない去年までなら目をつぶっていたのもやむをえない。しかしもうそれではならないはずだ。なぜなら、すでにわれわれには生ワクチンがある。根絶の可能性まであるというこの時期に、もはやいかなる流行も許してはならぬ。そもそも手足が不自由になる子供の数が数万人もいれば社会問題だが、数千人では問題でないという話はない。来年こそは、今まで問題にできなかった数千人という例年なみの患者の数を、あえて大流行≠ニ大声で叫びあげて勝負することが本当なのだ。今は母親たちと手を携えて力いっぱいたたかうことができるのだ。恐怖を撤くのではない、根絶をめざすのだ。「流行だ、流行だ」と精いっぱい叫んでみよう、と私は思った。
 
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