6 目立たぬ点灯
 
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 大夕張の大流行のかげで、あまり大きく世間の耳目をそばだたせなかったが、各地にポリオの跳りょうと、それに対するたたかいの灯はあった。同じ三十五年に愛知県の知多半島でも、ポリオの患者が四十三人続発した。愛知県衛生部の中にポリオと取組む七人のグループが生まれた。千種、吉本、小久保、伊藤、神谷、松島、山田の七人。人々は彼らを映画の題名をもじって七人の侍≠ニよんだ。それくらいよそ目にも真剣だった。侍たちは現地に乗りこんで、消毒作業等の指導に当たる一方、疫学的にも当時、何の手がかりもないこの強敵の正体をあばこうと、しゃにむに走り廻った。発生日と発生場所をグラフの縦と横の座標に示し、ポリオは一日三〇〇メートルの速さで拡がっているという「日速三〇〇メートル説」を打ち出した。
 あとから考えると、何程の意味をもつともいえないが、当時の経験からすれば大変な発見の響きをもっていた。県下の発生患者が三〇〇人を越える頃、七人は患者の家と周囲をしらみつぶしにまわり、ある者は、伝染経路が飲み水にあるのではないかと考えて井戸の消毒をすすめ、ある者は、家人の勤め先まで追いかけて健康状態と体質のポリオウイルスとの相関を解こうとした。またある者は、ポリオが文明病の一つであるというところから、患者の家の収入状態の調査をもって、何らかの有意差を出そうと努力した。
 無駄も多かったが、七人はそれから数年、ポリオに憑かれて暮らした人たちであった。
 
 石川県も、ポリオの発生の多いところである。ポリオに対する父兄の関心も高かった。昭和三十五年八月、石川県小児マヒ対策促進協議会が発足した。協議会は直ちに生ワクチン検定能力の急速な拡大、ワクチンの大量輸入、治療薬ガランタミンの輸入促進等を決議し、政府に要請した。ポリオからの救済を求める大衆運動は、これまでも各地のポリオ流行と共に散発的に多少はあった。三十四年夏、青森県八戸市附近でポリオの集団発生が起きた時、ワクチンがほとんどなかったことから、八戸市の岩淵謙一医師が日ソ協会を通して、ソビエトから三万人分のソークを寄贈してもらった例もあり、また北海道流行の後では、東京杉並の婦人団体協議会がポリオワクチンの無料接種を求める請願を区議会に提出し署名運動にのり出した。母親大会連絡会も各地でポリオ予防運動にのり出した。佐賀県唐津市では、市議会でソビエトのワクチンとガランタミンの輸入を決議した。自民党の石橋湛山氏も十二月三日院内で池田首相に会い、ソビエトワクチンの輸入促進を要望した。
 三十五年の北海道大流行を契機にして盛り上がってきた国民の声は、この石川県小児マヒ対策促進協議会を皮切りに、やがて北海道で「小児マヒから子供を守る父母の会」が結成されていったのと呼応して、全国各地に運動を拡げていった。
 
 その年の十一月十五日、東京麹町の自労治会館で「子供を小児マヒから守る中央協議会」の結成準備会が開かれた。会場には一〇〇〇人ほどの人が集まっていた。総評、日ソ協会、新医協等の代表と各県の代表者たちが中心であった。たまたま話題はポリオの治療薬ガランタミンに移っていった。
 ガランタミンは、さきに八月十日東京の九段会館で開かれていた総評大会第二日、来賓のソビエトのアレクサンドロヴィッチ・ブルゴコフ氏から太田総評議長に注射液二〇〇本が贈られた。これはニカ月前にソビエトを訪れた合化労連の組合員が、ソビエト中央評議会グリンシン議長あてに日本のポリオ患者六十二人分の病状について資料を届け、ガランタミンの提供を依頼していたものだった。十月六日には、さらにガランタミン・アンプル一〇〇人分の寄贈があった。
 ガランタミンはソビエトのコーカサス高原に春を告げる乳のように白い花。彼岸花科の学名ガランサスニバリス、俗名スノードロップと呼ばれ、わが国では松雪草といわれている植物からとったソビエトの薬である。これは日本でも京都大学の上尾教授が早くから実験をはじめ、九八%の治療率をあげたと伝えられていた。何とかこの薬をたくさん輸入したいものだという意見が多くの人々の間に高まっていた。十一月七日には、ソビエト中央評議会から総評に対して生ワクチン十万人分とガランタミン二万七〇〇〇本を十二月末までに送るという連絡が入った。会議はこのニュースをめぐって、その受け入れをどう成功させるかという議論に移っていった。
 「放っておけば政府はソビエトのものは断わるにちがいない!」
 
 議論は政治論になっていった。やがて質疑がガランタミンの輸入問題にしぼられると、初めから隅の方に控えめに坐っていた男が立ち上がって、ガランタミンの輸入の見通しと輸入許可の申請の手続きについて、口早やに説明をはじめた。
 「ソビエトから薬を買入れたのは今までにサントニンの原草だけしか例がなく、製品としての薬を輸入することははじめてのケースになりますが、この際小児マヒにかかった子供の手足をぜひ直すために、国民の皆様方の強い気持を支えとして近く正式の輸入申請をおこないたいと準備を進めておりますので、どうかよろしくお力添えをいただきたいと存じます。」 パラパラとおきた拍手の中で、この場に集まっている人たちの雰囲気とはまるで違った商社マンらしい低姿勢で、男はていねいにお辞儀をした。
 一番うしろの席に私は坐っていた。今のところニュースバリューのないこの程度の会合に顔を出している記者は、もとよりほかにはなかった。男の肩をたたいてドアの外へ促した。名刺をきってあいさつする。
 
 準備会の方ではありませんね、商社の方ですか」
 「はあ、イスクラ産業の石川士郎です」
 「イスクラの石川さん?」
 「小さい会社です。イスクラというのはロシア語で火花という意味です。どうぞよろしく」
 石川氏はまたていねいに頭をさげた。 「ところでガランタミンの輸入申請はイスクラ産業だけですか」
 「そうです」
 「申請はいつするんですか」
 「ソビエト科学アカデミーから八月四日に、ソ連大使館から日ソ協会に商業ベースで日本に輸出してもよいという連絡が入っていますので、できるだけ急ぎたいと思いますが、薬の輸入には特に相手がソビエトですから、所定の数の臨床データを厚生省に提出しなければなりません。ちょっと正確には申上げられません」
 「輸入が許可される見通しはどうですか」
 「私共の提出する薬の成分分析について、薬事審議会の新薬特別調査会が許可の結論を出してくれなければなりませんので、その辺は何分にもはじめてのことで大変不安です」
 
 石川氏のもっている資料は全部見せてもらう約束ができた。本来は病気にかかった者の治療よりも、予防を完全にしてポリオの根絶をはかることが目的なのだが、どの道ポリオ全体に世論を喚起する仕事からみて意味のある仕事だと私は計算した。さらにソビエトから初の薬の輸入とあれば、このニュースをスクープすることに新鮮な興味が動いた。
 新薬特別調査会の六人の覆面メンバーを探し出すのは少し手間どった。委員が覆面であるのは、これが公開されていると製薬会社から狙われるからだ。
 一方、十一月七日のソビエトからの生ワクチンとガランタミンの贈与の申し入れに対して、厚生省薬務局は、生ワクチンはまだ研究段階で受け入れ態勢ができていないから輸入はできないという見解を明らかにし、十一月十八日市村監視課長はソビエト大使館のロゾフ、ポポフ両一等書記官に会い、「生ワクチンをソークワクチンにかえてほしい」と希望を伝えた。ソビエトの薬に対する壁はあつかった。ガランタミンの輸入申請の提出もかなり先になる気配であった。
 自治労会館いらいの準備会の作業は順調に進んで「子供を小児マヒから守る中央協議会」(略してマヒ協という)は十二月一日結成総会をおこなった。しかし、まだ冬のこととて世論はこれに大きく注目することはなかった。 来夏をめざすソークワクチン接種の第一段階は無為に時をすごしつつ、ポリオ情勢の深刻さを包みかくして昭和三十六年へと年を越した。
 
<第1部 さまざまなる序章終わり>
 
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