10 いくつかの良心

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 富士吉田の町にポリオの嵐がおそったのは、四月二十日のことであった。
 小学校五年生の渡辺進君と二年生の滝口政男君の二人が相次いでポリオと診断され、進君は四戸二十日、政男君は二十一日に、あっという間に死亡した。
 富士吉田は富士山の古い登り口、秀峰の広く深いふところにいだかれた人口四万三〇〇〇の緑と平和の町。市内には小学校が三つあるが二入の在学していた学校は共に下吉田小学校。太い登山道をはさんで上下に細長い市街では比較的知識層の多い山手地区であったため、この地区を中心とする市民の不安の声はいっせいに高まった。富士吉田保健所長は土屋夏実氏であった。自分もかつて結核をわずらい公衆衛生を専攻していた土屋所長は、ポリオがこの平和な町を侵すことに決然と挑戦した。 
 もともと富士吉田では、この所長のもとで、一歳半までの乳幼児にソークワクチンの予防接種は二回目が八○%まで終わっている好成績であった。けれども今度の発病は小学生だ。とすると高年令層には自然免疫が低いのではないか。もしこれがきっかけになって高年令層にポリオが拡がったら夏の流行期には防ぎようがない。予防注射を小学生まで拡げることはできないか。土屋所長は、市当局と交渉してみたが、最近観光地として斜陽の富士吉田市の財政では総額一〇〇万円のワクチン予算の中で学童だけに九十万円の半額補助の支出はしょせん無理なこと。だいいちワクチンも足りはしない。土屋所長は、その少し前東日本伝染病学会で発表されたばかりの○・一CC四回接種法という実験成績をつかってみることを考えた。
 ○・一CC四回法というのは今採用されている一CC三回法の量を十分の一にして、皮内注射四回で同じ効果をあげようとする実験であったが、たまたま土屋所長は論文でこのことを知っていた。念のため専門家に相談しようと国立予研から下条寛人博士に来てもらった。下条博士もこの緊急措置に賛成した。もう一人、この市には京大の甲野礼作教授と同期生の篤学の羽田医師がいた。羽田医師も強く所長を励ました。
 土屋所長は○・一CC四回法にハラを決めて厚生省へも連絡したが、
 「その方法は効果が信頼できない」
と反対の意向。
 山梨県衛生郡もその方法に反対した。
 しかしそれでは無抵抗で子供たちを夏まで放置してしまうことになるのではないか。この話が新聞の県版に出たので市民の知るところとなった。町は不安な話題に満ちた。
 土屋所長に懊悩の日がつづいた。 
 
 土屋所長はポリオの発生した地区の市営住宅に住んでいた。毎朝家を出る時に近所の奥さんから「お願いします」と声をかけられる。それは単なる儀礼ではない。日頃から市の医師会とグループをつくって、得意の手品などをみせ、公衆衛生思想の普及につとめていた土屋所長の努力を、町の人たちはよく知っていた。特に最近赤痢が流行した時の所長の熱意は尊敬を集めた。精密な伝染病台帳の作製はそれまでこの市にないものだった。
 ある朝、家を出た所長を四つ辻で数人の主婦が待っていた。
 「所長さん、県や市と意見が合わないそうですね。あたしたちは所長絶対支持です」
 「それがいいたくて・・・・・・」
 「あたしたち、所長さんのやり方がどういうものか知りませんよ。だけどね、せっかく所長さんがしてくれることなら、それでダメなら仕方がないと思います」
 「うちの主人もね、所長さん、所長さんがやめるようになったらみんな富士吉田から出ていかないように頼まんといかんといっていました」
 保健所長としてこれ以上の幸せはない。身のひきしまるおもいだった。土屋夏実は決意した。
 (厚生省や県の立場は立場だ。しかし誰もポリオに見通しをもっていない。そういう時に、具体的な義務を果たすのが末端の責任だろう。・・・・・・そのあとで所長をやめることになるなら、それはそれで仕方がない)
 土屋所長は県衛生部からの何回もの勧告にもかかわらず、とうとう○・一CC四回接種をやり通してしまった。二人の小学生の死因がポリオであったかどうかについては、じつはあとでも議論のあるところだ。だがこの時の土屋所長の緊急措置は、厚生省が後にワクチン対象年令を拡大したことを考えれば、決して間違っていなかったということである。
 特にこの辺ぴな市の保健所長が、克明に学会のデータを研究し、勇気をもって末端の義務を果たそうとした行為は、大いに評価さるべきことだろう。
 
 四月二十七日夜七時すぎ、自宅に帰る途中の車の中で、東京都議会の加藤千太郎副議長は、ふとカーラジオのニュースに耳をそばだてた。
 「小児マヒワクチンの予防接種は今月一日から義務接種になりましたが、東京都ではワクチンの値段が決まらないため、都内の保健所ではまだ一カ所も接種をはじめていません・・・・・・」
 労働組合出身の加藤副議長は、こういうことには非常に敏感に気持が動いた。
 (事情がよくわからんが、何か手遅れがおきているのではないのかな)
 まさに手遅れがおきていた。
 すでにソークワクチンによるポリオの流行阻止態勢は、破綻しはじめていたのである。
 ソークワクチンによって免疫を作ろうという方法は、三回注射で八カ月の期間がかかり、七五%が免疫を得るという効率のもの。
 ポリオの流行期は六月から九月、それまでに三回の予防注射を終われる子供はほとんど数えるほどしかいないはずであった。しかも、ソークワクチンの効果の保障は、すでにいくつかの実例で突き破られていた。
 三月十三日、東京中野区大和町の十一カ月のS子ちゃんが、二回予防接種をうけていながら発病した。幸い左足に軽いマヒが残るていどで四月一日に退院した。
 三月三十一日、北海道檜山郡江差町小黒部の一年十一カ月のA男ちゃんが発病して右手にマヒがきた。この子も二回接種済み。
 山口県では四月三十日に萩市と佐波郡徳地町に、二回済みの幼児が二人発病、衛生モデル地区の熊本県小川町亀ノ町では五月八日までに発生した患者五人のうち、二人が二回接種済みの男児。五月十一日に山口県小野田市で、三回済みの二歳女児が発病した。
 この日までに全国でソークを打ちながら発病した子供は合わせて十一人。
 そして患者発生日報は、その日五六一人の患者を数えていた。
 
 この状態の中で東京都議会の加藤副議長の耳にとびこんだニュースの一撃は、複雑な計算の結果であった。
 (ソークワクチンではもう駄目だ。いつ生ワクチン攻勢にふみきるか?) キャンペーンの最大の課題であった。すぐ生ワクチンのいっせい投与を訴えるのが一番正しいのはわかっている。しかし、肝心の生ワク協議会や政府が生ワクチンに結論を出すにはまだ遠い。そこで手にも入らぬ生ワクチンを叫んでどうなる。それでは混乱を生むだけだ。接種済みの子供が発病したのはソークをうったことによって発病したのではないのだから、十一人の発病の事実は直ちにソークを否定する理由にならぬ。このことに報道の重点を置くことも第二の混乱のもとであろう。ソークの限界は明らかだが、まずソークの徹底を呼びかけることが現実論としての順序であった。生ワクチン一辺倒にふみきる時期は慎重に選ばねばならぬ。まずソークでどこまでいけるか、一日も早くその限界へまでいってみるよりほかはない。だいいちソークか生かの問題の前に、ソーク体制自身がひどく遅れきっていた。それも学問上の理由などでなく行政の手続き上の理由で、予防接種の遅れが許されてよいいわれはない。決して東京都だけが遅れていたのではない。が、まず東京を叩くことは全国への警鐘となるだろう。
 加藤副議長の耳にとびこんだそのニュースは、それだけの思いをこめて、あえて東京都に向けられたショック攻撃であった。問題のソークワクチンは十四万人分。四月中頃東京都に届いたが、厚生省からの使用許可の通達が遅れたことや、単価が決まらないという理由で実施がのびていたもの。いつになっても注射がはじまらないという母親の訴えが、日に日に不安の声を大きくしていることを背景に、キャンペーンが狙った標的であった。
 翌朝、加藤副議長は、すぐ係官を呼びつけた。
 「ことは人命の問題ではないか!」
 社会党の副議長にとって、議会が閉会中で自民党の議長が外遊中であることはチャンスであった。副議長は議会を代表して都知事に異例の促進勧告を発した。
 東京都は、手続上の無理を通して、その日のうちに実施の方針を各保健所に指示した。
 各県での動きがこれによって早まったのはいうまでもない。
 
 グリーンのワンピースがその長身によく似合う若い女性がポリオチームの人に面会だという。
 ひやかされながら、それではと私が会った。
 「K女子短大フランス語講師、小池勢津子」という名刺。
 「どうせ、花嫁学校の臨時議師ですからその方は関係ございません。NHKでポリオキャンペーンがおこなわれているのを知って、そのことでお伺いに来たのです。今日はちょっと新橋まで来たものですから。ついででお仕事をお邪魔してごめんなさい」
 「ニュース前だったので少しお待たせしました。どうぞ、ご用件を」
 「人をたずねたいのですが。ポリオの生ワクチンを扱っているイスクラ産業の石川さんという方、こちらでご存知ないでしょうか」
 「ああ、石川さん。よく知っていますよ。多分住所もわかるでしょう。しかし、あなたは彼をどうして?」
 「あらっ」と明るいワンピースが笑った。
 「わたくしね、妙なことからボンボン生ワクチンの持ち込みを手伝ってしまったんです。石川さんのね。その時は、そうは思わなかったのですが、世間でこうでしょ。ところが、いっこうに生ワクチンの話が出てこないから、私の役割はどうなったのかと石川さんに聞いてみたくなったんですの」
 スカンジナビア航空の帰国のもようが紹介される。いかにもフランス帰りの気軽な様子。放送局へ訪ねて来るのも買物のような調子である。
 「ポリオの根絶って、ほんとうにできるんですか」
 鉄砲でもはじくように質問が飛んでくる。
 「必ずできます。今がチャンスで、そして、今、非常に微妙な時です」
 「石川さんの持って来た生ワクチンはいつ使うんですか」
 「今、使わなければならないんです。それが間に合わない」
 「間に合わないって?」
 「勇気と時間ですよ」
 「・・・・・・じゃあ、ソークワクチンでこの夏はいいんですか」
 「いけないんですよ! ソークでは。夏の流行期までに、必要な三回注射のうち二回までしかうてません。それも全部じゃない。ワクチンが全然足りないんです」
 「政府はそれ、知らないの?」
 「知ってますよ。ワクチンが足りないことも、流行に間に合わないことも、だから生ワクチンでなければならないことも、政府も学界もみんな知っているはずですよ」
 「知っていてどうして?」
 「予防行政としてはそれが限度なんですね。根絶なんてことは役所にとっては虚しい理念ですよ。行政としては,世間から問題にならない程度まで、ほかの伝染病ともバランスをとって、抑えきることが義務の限度だ。特にゼロ≠ナある必要はない。防疫行政として説明のつく線で、世の中が騒がない線で流行を止められればよしとされるんですね」
 「説明のつく線て何ですの?」
 「防疫上、ポリオの流行というのは人口十万人に六人とされているんです。それ以下なら防疫行政の勝利なんですよ」
 
 キャンペーンの追い上げによって世論は明らかに数万ではなくて数千の流行を問題にしていた。ここまできては、厚生省はその線を必死に守ろうとしていた。予防行政の名誉をかけたバロメーターであった。それが守れるかどうか。厚生省も、生ワク協議会も、だれにも確信はなかった。
 「だからね、ここから先は行政当局とわれわれキャンペーンの立場とは、全くちがうことになるんです。こっちはソークをとことんまで追い上げて、生ワクに道をひらきます。そうしなければならないんですよ」
 私は自分にいいきかせるように最後のひとことに力をこめた。
 「で、今バロメーターはどうなっているんですか」
 「それですがね。ポリオの即日発生集計ー今ではポリオ日報とよんでますがーーーそれが始まったのが四月一五日。その日までの数は四百二十三人でした。十五日一日での発生数は全国で二人。それから一週間の患者の数は四十人でした。つまり四月二十二日の全国総計では四六三人になるわけで、これは去年の同日の四八二人より十九人少なかったのです。一週間単位でみると患者の数は、だいたいこのペースで三十から五十で昨年と上になり下になりながら、四月いっぱいで五〇〇人ちょうどになっています」
 「・・・・・・・」
 「ただ問題なのは、この数は決して全国の平均的な分布でなく、五〇〇人のうち九州七県と山口県を加えた地域が全体の半分、そのまた半分を熊本県が占めているのです」
 「熊本は暑いからかしら?」
 「そう、それもあるでしょう。だが、しっかり注意しなければならないのは、熊本の患者数は四月いっぱいで一二〇人、県人口一八七万ですから十万人対比の計算では、あのバロメーターをはるかに越してしまっているんです」
 「熊本もソークワクチンだけなのね」
 「その通り。それさえも率は低い。どこからいっても、熊本でのポリオのたたかいは破綻してしまっているんです。今や、舞台は九州ですよ」
 まさに決戦の舞台は九州であった。不幸な予言が当たってしまっている。防疫上の常識やWHOの勧告に従うなら、熊本では今や、ためらうことなく生ワクチンの投与をおこなうべきであった。学界は三年≠待ってはならないはずであった。
 
 五月六日の朝、東京目黒の国立予防衛生研究所には風変りな訪問者がつづいて入った。
 事実奇妙な風景であった。
 医学界に多少でも面識のある人ならば、びっくりするほどの大学者たちが、皆一様に色とりどりの魔法瓶を抱えて数十人、予研の会議室に集まったのである。それは、生ワク協議会の発足以来はじめての具体的な行動であった。去る二月十一日、イギリスのファイザー社から届いた、T、U、V型の生ワクチンを使って、いよいよ第一回の全国実験にふみきることになり、今日は実験を担当する全国各大学病院の責任者が、その打ち合わせと生ワクチンの受け取りに集まったわけだった。
 魔法瓶を持参したのは、生ワクチンがマイナス二○度から六〇度で保存する必要があるため、これにドライアイスと一緒に詰めて自分の手で持ち帰ろうとするためだ。
 予定された実験は全国四十一カ所で四七〇〇人分。もちろん、この実験も今日の会議も極秘となっていた。これが決まればいよいよ生ワクチンの第一段階の開幕だ。私は半日会議室の窓を眺めて待った。
 予研の前の庭には、名の知れぬ群集花の白い小さな花弁が咲き散って、そのきつい香りが流れていた。その上を若い所員たちがバドミントンに興じている。会議場の中には、大教授、大博士たちがずらりと席を占めている。四十一カ所の実験を受持つ二十七の大学、病院、研究所の代表が計画や注意書を注意深く検討していく。平山博士が熱心に説明した。手を挙げる人がいる。立って話す人もいる。張りつめるような空気であった。
 「各グループの実験データは明年三月末日までに、必ず東大小児科まで返送して下さい」
 六時間近い会議が終わった。
 夕方の予研の庭へ紅潮した顔で足早に出て来た人たちは、いいあわせたように無口であった。一人、道に不案内でタクシーを探している若手の研究者がいた。車にさそう。
 「私は大阪から教授の代理で来ました。夜行で急いで帰ります。研究室へ帰るまで、こいつが大変な責任ですよ」
 しっかりとかかえた魔法瓶のふたを、とんとんと叩いてみせた。
 夜七時のニュースは生ワクチン実験開始を大きく報じた。たしかに生ワクチン時代の開幕であった。しかし、本格酌な大量使用は今日からまだ三年かかる。こうしている間にも拡がるポリオを、誰が、どうするのか。
 その夜、東大医学部のアーケードを平山博士と私はしばらく無言で歩いた。今夜はむしむしと暑く、付属病院の外科の病棟のガラス窓の灯が妙に黄色くにぶい。
 「今日までの患者は五三二人、この発生数はソークの限界と見ていいでしょうね」
 「多分、これから先はね」
 「少なくとも九州は生ワクでなければ救えない状態に入ったと思いますが」
 「ええ」
 「生ワク協議会が今日決めた投与数は四七〇〇人。九州の子供は百万単位。需要と供給はケタ違い。しかも救済の必要は目の前の夏にあります。学問はそれでもまだ三年かけるんですか」
 「やれないことはないはずです」
 言葉に激しい響きがこもって、学究の目がきらりと光った。平山博士の胸のうちに、潮が満ちてくるのが感じられた。
 
<第2部 潮の満つ前 終わり>
 
 
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