二部 潮の満つ前
 
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     7 もどかしさ
 
 昭和三十六年(一九六一)。いよいよその年。
 厚生省も決してさぼっているつもりはなかった。ソークワクチン体制を確立することに全力を尽していた。大蔵省を説得して三十六年一月から三十七年三月までにおよぶ十五カ月予算二億八○○○万円という、これまでにくらべればケタ違いの予算を獲得した。そしてまず皮切りに一月から三月まで行政指導≠ニいう形で、生後半年から一年半までの乳幼児を対象にソークワクチンの希望接種≠おこなうことになった。ソークワクチンに頼る限り、免疫効果を期待するには第一回一CCの注射、それから二週間乃至六週間おいて二回目に一CC、さらに七カ月後に第三回目一CCの注射、つまり回数にして三回、期問にして最短八カ月の期間を要するのであるから、第一回目を冬の最中に始めなければ、夏の流行には間に合わないことになる。全部はとてもやれないから、生後六ヵ月から一年半までの一番危険な年令層をまず守ろうとしたわけであった。しかし薬事法にはそういう規定がないので、国がやることながら、形としては本人からの希望≠ノ応じて注射をするということになった。そこで予定を立てるにあたって厚生省は、その希望者の数を総対象者一六〇万人の六〇%である九十六万人と見込んだのである。ジフテリアが五〇%、種痘でも八○%強、強制的にやってもその程度の実績からすれば、ソークワクチンの六〇%は常識的なところだった。ところがいざフタを開けてみると九十六万人どころか申込みは全国で実に一三五万人に達した。驚いたことであった。このあたりで厚生省も今度の世論は少しおかしいぞとは感じはじめた。とにかく大あわて。補助金の補助率の切下げをしてようやくつじつまを合わすことができた。厚生省が予想したより国民は二〇%あまりも高くポリオ予防対策を求めていたということであり、その分だけ厚生省の姿勢は甘かったということになる。
 世間のポリオ予防ワクチンを求める声は、決して急に高まったわけではない。その一年前、ようやく東京に一〇CC入り一三六本のソークワクチンが輸入された時、都内の七つの都立病院に一病院当たり十三本から二十四本を配ったところ、これに対し希望者はそれぞれの病院で二〇〇人から四〇〇人に達し、病院が少しもPRの掲示をしないのに窓口には多い日には二十人あまりも「ワクチン接種を−−−」と頼みに来る有様であった。三回必要なワクチン接種は、都立病院へ行っても合計一八六九円かかるのに、世の中の関心はこんなに高かったのである。
 ワクチンの値段についていえば保健所や公立病院では、三回分でだいたい一五〇〇円の実費を取っているが、町の病院では三〇〇〇円から五〇〇〇円ぐらい。それでも病院には愛児を抱えた人々が列をつくり、奪い合いまで起こる事態であった。主婦連は九月二十八日、春野副会長以下八人が牛丸薬務局長に会って抗議と要望をおこなった。
 「今の輸入ワクチンの値段はわずかに一回分五十二円そこそこしかしてないはずです。それに関税や検査料を加えても七十円程度です。ところが厚生省は、やがて国産ワクチンが売り出されるのでその価格維持のため、この安い輸入ワクチンを四五〇円で病院に渡すように指示しているというじゃありませんか。輸入業者ばかりが莫大な利益をあげるこのような価格制度を、すぐ撤廃して下さい!」
 世論に押された形ながら厚生省は業者との交渉を進めてソークワクチンの値下げをはかった。それまで一般医院では一回一CC当り一〇〇〇円から一五〇〇円が相場であったのを、七十円原価の輸入品と高い国産品のプール制によって一CC当り三四六円程度に値下げし、それに処置料を加えて三五〇円までで接種できるように話し合いがまとまった。厚生省はこれによって国産、輸入双方で三十六年中に二八○万人の接種を見込んだのである。
 行政当局としては、生ワクチンについての十分な情報や学問的な結論が出ていないとなれば、ソークワクチンに頼るよりほかはない。それに、前年の北海道の流行の際、あてにしていたアメリカの輸入が先方でもポリオの流行が起きたため急にストップされたという苦い経験もあるのだから、何としてもまず第一にソークワクチンの国産化を急ぎ、これによってその年を乗りきろうとした態度は、一概に甘さとだけで責められない要素もあった。防疫当局としても、これで三十六年夏のポリオを押えられるという確信を持っていたわけではない。これがせいいっぱいのところであったのである。
 
 一方、生ワクチンヘの踏み切りの鍵を握る生ワク協議会は、「ウイルス学界、伝染病学界、公衆衛生学界、病理学界、小児科学界、および製造関係研究者の代表的な人物六十人を集め」接種部会、病理部会、製造検定部会の三部会の構成をもってようやく研究活動を開始しようとしていた。生ワク協議会の中心グループの腹づもりでは、生ワクチン移行のだいたいの見当として初年度の三十六年に五〇〇〇人、第二年度に万単位から十万単位、第三年度に百万単位からできれば全乳幼児にあたる千万単位に至るという考えであった。つまり生ワクチンの全面使用は順調にいっても三年あとの昭和三十八年になる。世界では前年の五月、WHOのウイルス部長ぺーン博士が生ワクチンによるポリオの絶滅をよびかけ、八月にはアメリカでセービン生ワクチンの製造が許可になり、十二月にはモスクワのチマコフ博士がボンボン生ワクチンの成功を発表して「ポリオ撲滅のため世界的な努力をWH0に提起する時がきた」と演説しているというのに、やっと弧々の声をあげたばかりのわが生ワク協議会は、その生みの親セービン博士に実験のため生ワクの原液を送ってもらうよう要請するところであった。この時生ワクチンの実験投与の責任を負うのは接種部会。部会長は高津忠夫東大教授、事務局担当は平山宗宏博士であった。
 たしかにわが学界は遅れていた。だが急ぐにしても事情は簡単ではなかった。第一にこの六十人の学者のうち実際に生ワクチンを自分の目で見た人が決して多くはなかった。第二に六十人の学者のすべてが決して生ワクチン賛成論者とはいえなかった。さらにわが国の国産ソークワクチン第一号が、ほんの八カ月前登場したばかりであることを考えれば、生ワク協議会のこの三年計画は決して無理のいえないスケジュールではあった。
 生ワクふみきり。
 そして
 ポリオ根絶へ。
 ひたひたと潮の満ちてくる気配は確かにあった。しかし、そこには何か一発≠ェ必要だった。川喜田教授のいうようにエマージェンシー≠ニいう大嵐を待たねばならないのかもしれない。もし去年に続いて北海道流行のような嵐が襲えば、ソークワクチンではどうせ防ぎきれないことがわかっていた。だから当面の努力をまずソークに傾注しながら、その破綻の時期にすぐ生ワクチンを迎え入れられるような二重の準備を進めておかねばならぬ。この二重の事態を理解する誰もが不安を持っていた。関西流行説、仙台流行説などが相ついでささやかれた。つきつめていけば、どれもが単純な周期説や粗い風説にすぎないことがすぐわかった。所詮は指の間からポロポロとこぼれてしまいそうな防疫体制を裏がえしての不安でもあった。心ある何人かの医者と記者が、凍るような寒い日に暑い夏の日を思いながら、もどかしく焦れていたのが、三十六年一月の姿であった。
 
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