8 象と一本橋

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 NHKは巨大な象にたとえられる。
 動きが鈍く、無表情である。しかし力は大きい。動き出すには時間がかかった。ポリオキャンペーン資料「小児マヒをなくすために」は、報道局M次長の大きい机の上で二カ月あまりも眠り続けていた。私は毎朝机の上の資料を見えやすいように置きなおした。ついにM次長は庶務係をよんだ。
 「記者がひとりで勝手に六万円もの印刷費を使っているのはどういうことだ。悪ければクビの問題だよ。よくいっておきたまえ」
 私は大目玉をもらった。資料の百冊の印刷の許可をもらいながら、三百冊を印刷してしまったのだ。
 やがて洛陽の紙価を高めるものをと、私は大いに不満であった。しかしよく考えてみれば、M次長の腹立ちを無理解というのは当たらない。この厳冬の季節に、ポリオという名前も知らない人に夏の流行を訴えたり、ポリオ根絶を叫ぶのは、たしかに少し突飛であった。おまけにNHKはじまっていらいの大キャンペーンを起こそうという話である。そこに無断で六万円のカネを使うとは、注意するに値するけしからん行為であった。
 どうもうまくないな、そんな気持で私は外へ出た。厚生省へ足がむく。叱られついでにやるだけやってやろう。高部課長をコーヒーに引っ張り出した。二人は資料の交換などを通じてすでにかなり話し合える仲であった。
 「課長、高橋圭三に生ワクを飲ませるというのはどうです?」
 「え? それはいったいどういうことですか」
 「キャンペーンですよ。あたたはNHKの力を使おうと考えませんか」
 「そりゃあ、御協力願いたいですよ」
 「ラジオとテレビがいっせいにこの夏のポリオの危険を訴え、予防接種を訴える・・・・・・」
 「一般の関心を高めることは何より必要です。ソークワクチンはね、放っておいたら六〇%から先は困難です。ドブヘカネを捨てることになるかもしれない」
 「しかもキャンペーンは、ソークのあとに生(なま)をめざす。根絶を叫んで母親の熱意を促す」
 「う一ん」
 「世論の激しい盛り上がりの中で、学問も急ぐでしょう。政治もぼやぼやしていられなくなる。やがて、生ワクチンが登場する。生ワクを『私の部屋』で高橋圭三や藤浦洸がポンと飲む・・・・・・」
 「あ−、『私の秘密』でねえ」
 当時、テレビの最大の人気番組は高橋圭三の司会する「私の秘密」であった。記者としてはキャンペーンの中に最高の人気番組が加わっていく姿こそ、最高の興奮を感ずる想定だ。
 「わかりますね。全社会的な防疫行政を成功させるためには、放送の役割が必須であることはもう常識です。アメリカのテレビでも小児マヒ財団からのお知らせだけは最優先で放送するそうです。生ワクの情勢がそこまでくるかどうかは、まだ私にはわからないが、私も防疫官としてそれだけの勝負はしてみたい。だけどNHKはそこまでやってくれるんですか」
 「それは私もわかりません。だが私はやってみたい。高部さん、うちの幹部にその話をしに来ませんか」
 「いいですね。ぜひ連れて行って下さい。誰に会うんですか」
 「報道局長がいいでしょう」
 二人は共謀≠意識した。
 
 高部課長としてみれば現在のソークワクチン体制と世論の関心度で、この夏の流行が防げるという自信が全くなかったのだから、生ワクチンまでいけるかどうかはまたあとの話として、当面NHKのキャンペーンはとびつきたいものであったし、こちらにとってもポリオ根絶≠めざす放送キャンペーンにこの前線司令官の参加はぜひ必要だった。ともあれ、二人がかりでNHKという巨象をこちらに向けて歩かさねばならぬ。前例や慣習などにこだわってはいられない。
 高部課長と春日技官は報道局長室を訪れた。唐突な感じは否めなかった。
 佐野報道局長は、しかし高部課長の来訪に最大の理解を示して応待をした。
 「予防行政は世論の協力なしにはありえません。NHKのご支援が得たいのです」
 「よく理解できます。NHKは世の中のために役立つことが使命と考えています」
 禅問答のようなやりとりだが、それはそれでいい。狙いは十分だ。
 お墨付はとれたのである。
 「あれでよかったのですか。これから先はどういうことになるんですか」 高部課長は報道局長室を出て肩を並べて歩きながらそう聞いた。
 「結構。いや、あれでいいんです。すぐにキャンペーンがはじまるというわけではないんですが一歩前進です。そこで課長の方は、すぐ厚生省から各県の衛生部に、NHKの取材に全面的に協力せよという通達を流して下さい」
 「わかりました」 うしろにいた春日技官の方が先に大声で答えた。
 ポリオ対策の第一線である防疫課の、そのまた第一線にある春日技官は、今、何をしなければならないかをすぐに理解した。
 厚生省の防疫課でも全国のポリオ対策を進めていくには、具体的なデータや態勢は全く整っていなかった。各県別の本当の接種対象住民、ワクチンの手持ちの量、ウィルス検査能力、鉄の肺の数等、もっとそれ以上に、ポリオの発生の実態すら正確にはつかみきれない司令部であったのである。
 
 そもそもポリオの発生数は、届出制になった昭和二十二年以前は、全くデータはないに等しい。倒えば、昭和十三年と十五年に関西を襲ったかなりの流行は、阪大小児科だけでも一〇〇〇人の患者を診療したカルテが残っているが、それについての全体のことはさっぱりわかっていない。昭和二十二年については患者の数が二七五人で、そのうち死者が一〇〇九人出たという記録になっている。これは医師の届出制が年度途中からできた珍現象であるが、それ以後でも数字は医師の怠慢や患者の気持、それに届出のダブリなどで完全に正確とはいいがたい。札幌医大の金光教授が昭利三十一年に、都市だけについて調べたところでも、届け出たものは全患者の六五%に過ぎなかった。勿論農村はもっと低いだろう。昭和三十五年の大流行にしても、厚生省のつかんでいた数字は概数であり、春日技官に正確な自信のあろうはずはなかった。
 決定的に障害となることは、各地で起こっているポリオの発生状況が早くとも三週間、普通で一カ月近くかからないと厚生省ではつかめないということだ。それは届出が保健所から他の届出伝染病といっしょに集計されて週一回の普通郵便で県衛生部へ届けられる。県衛生部ではそれらを集計して同じように厚生省へ郵送するという手順であるからだ。一年間の数字が確定するのは来年の春になる。大流行の場合は電報で連絡が来ることになってはいるが、それは例の十万人に対して六人以上患者発生という尺度をこえた場合なのだから、保健所や県衛生部がそうした状況を的確につかんで敏速に報告してくれることを期待するのはむずかしい。
 毎日のポリオの発生状況を、その日のうちにつかめるようなシステムを確立するにはどうしたらよいか、それが勝負のキメ手であった。ところが調べてみると、いろいろ困難な状況がたくさんあることがわかってきた。第一に、各保健所から県衛生部への報告を、今までの一週間ごとにまとめる形から毎日報告という態勢へ切り換えるには非常な無理があった。第二に、調査は昨年との比較を含めて取らなければならないが、昨年のデータが完全でないので、これも毎日二年分を合わせて調べなおす必要が出てきた。第三に、かなり長期にわたって全国的に欠かさず集計を続けようということになれば、予想外に人手がいる。つまり、ゼロ予算ではできないシロモノであったのである。
 
 このときこの無理を突破したのは、記者特有の蛮勇と友情であった。私は、当時社会部遊軍としてともにポリオを担当していた七人の友人記者に心から感謝する。
 競争にあけくれる記者の世界で、その協力は稀有のことであった。七人は、神戸四郎、福田照明、杉林廉、川上隆弘、土屋通幸、石井三郎、田畑彦右衛門。
 「哲ちゃん、しゃにむにやることだよ」
 「これだけの仕事はほかにないもんな」
 「ゼニはこなくても、こっちでまともにぶつかれば、全国の記者はわかってくれるよ」
 「とにかくやろうじゃないか、みんなで応援するよ」
 全国に張りめぐらされたNHKの放送網をつかって、初の大伝染病調査網を確立しようという野心は、情熱のみにすべてをかけて、じつは正式に許可もないまま目をつぶって全国指令をテレタイプにのせた。
 「ポリオ発生患者の即日集計について。以下につき調査乞う。東京社会部ポリオチーム」
 『ポリオチーム』とはその時はじめて使われた名前であった。上司から与えられたお墨付ではない。記者が胸の中で手をあわせながら全国の記者に協力をよびかけたものだった。
 同じとき、厚生省防疫課から各県衛生部へ出されたNHKに協力せよという奇妙な通達も、このポリオチームからNHK全国ネットに流された調査依頼も、それぞれ正規の手続きを省略して目をつぶって打ったバクチであった。ちがった点がひとつあった。厚生省はソークワクチンの普及をめざしていた。ポリオチームは生ワクチンをめざしていた。ともかく第一回の予備調査の結果では、困難な条件が非常に多いようであった。さすがに大流行を経験したばかりの北海道庁のように、ポリオチームの調査原案をもっと実情に合うように修正して協力してくれるところもあれば、保健所から毎日報告をとるというのは人手や電話料の予算がないので困るという県があったりして、間い合わせはひっきりなし。
 「ポリオチームの責任者を出してくれ」
 部長に聞こえないように応答する。
 「はい、どうぞ」 「これだけの仕事に予算が全くないというのはどういうことですか」
 「予算はありません。予算をつける余裕がまだないのです。とにかく、ポリオの足の方が早い」
 「・・・・・・・・・・」
 「そのうち何か考えます。ポリオを放ってはおけない。滑り出せば方法も生れる。ね!」
 「即日集計、いつまでやるんですか。見通しは?」
 「多分秋まで、十月までです。勝負がつくでしょう」
 強引な話だったが、こんな状態でポリオの即日集計計画はとても実現の可能性は少ないように思われた。これだけの無理を押し切って調査を強行するには、やはりエマージェンシー≠待たねばならないようであった。流行≠つくれるかどうかが分かれ目であった。
 二月十一日、さきに生ワク協議会からシンシナティのセービン博士に斡旋を依頼しておいた生ワクチンの原液が、イギリスのファイザー社から国立予研に届けられた。ポリオT型、U型、V型をそれぞれ原液五リットルずつ凍結したもので、予研腸内ウィルス部に保管された。しかしこのニュースを勢いこんで記事にした原稿は、編集デスクを通らなかった。
 「哲ちゃん、ちょっと肩に力が入っている感じだね」
 「そうかなあ、やいやい、今にみてろよ、歴史的大原稿をボツにしたのを後悔するぞ」
 笑いにまぎらせて肩をいからしてそういったが、勿論どの新聞でもこのことを書いたものはなかった。
 
 「時の動き」を担当している敏腕青木プロデューサーが同志に加わった。
 「資料を読んだ。こりゃあ、放っといちゃあいかん」
 問題を完全に理解したこのベテランプロデューサーが、甲野教授と川喜田教授を中心にして二日連続構成で作りあげた「時の動き小児マヒ問題と取り組もう≠ヘ、この夏のポリオの流行の見方と、そのために今からはじめねばならぬポリオとのたたかいの核心をついて、見事な出来栄えであった。しかしそれも、世論に特に大きい反響は呼ばなかった。なぜなら、その日は雪が降っていたからだ。夏にはまだ遠かった。
 栗林商船社長栗林友二氏は、ダービーの名馬「クリペロ」の優勝記念に、賞金二百万円を何か社会事業に役立てたいとNHKに寄託した。「ポリオに使えないかい、と声がかかった。これはありがたい。早速ポリオの肢体不自由児施設へ贈ってもらうようにはからって、ニュースで扱う。どんなことでも世論の関心をポリオに向けさせたい気持であった。
 三月のはじめ、イスクラ産業の石川氏が訪ねてきた。ガランタミンの輸入申請は二月十七日に提出された。あとは新薬特別調査会の決定だけだった。
 「上田さん、ガランタミンは通るでしょうか」
 「.私の取材では、輸入許可は一〇〇%間違いないと思いますよ」
 「そうですか。それは有難い。しかしもう一度聞きますが、あたた本当に自信がありますか」
 私は少しむっとした。
 「私はポリオヘの情熱と記者の興味で調べているので、自分の判断の責任をあなたに負う必要はありませんな」
 「いや、これはいいすぎました。どうか怒らないで下さい。上田さん、私は記者としてのあなたに運命をかけるのです」
 「少し大げさですね」
 「いや、大げさではないのです。もう一度念を押させて下さい」
 「記者としてはあなたの商売に責任を負う気はありません。しかし自分の取材に対する自負からいって、もう太鼓判を押しますよ」
 「いつ頃になりますか」
 「三月二十七日の調査会」
 「朝? 昼?」
 「そりゃわからん。調査会の秘密会の場所もつかまなければならないし・・・・・・まあ、夜までは、つかめるでしょう」
 ずいぶんしつこいと思ったのに、ひるむ様子のない石川氏はきっぱりといった。
 「有難うございます。これで決めました。私はすぐモスクワヘ発ちます」
 
 その翌日、あせり気味の私は公衆衛生院疫学部長の松田心一博士を訪ねた。松田博士は「ポリオの根絶をめざすほど社会に徹底した予防接種をおこなうことは非常にむずかしい」という意見のようであった。そこヘドアをノックして入ってきたのは、北海道衛生部の中川勇博士。大夕張流行当時の第一線指揮者。中川博士の話は重大だった。
 「北海道の情勢は決して今年も楽観できないんですよ。今までに出ている患者が十九人。これは昨年同期より七人も多いんです。そこで北海道では厚生省の方針を上回って、夏までに二歳半までの子供全部にソークワクチンを注射したいんですが、ワクチンが足りません。ぜひ、先生からも厚生省に話していただきたいと思ってお願いにあがりました」
 丁寧に頭を下げた。真面目なこの人の熱意に松田博士も真剣にうなずいていたが、中川博士のもたらした情報はさらに重大だった。
 「今日の会議で聞いたのですが、熊本はすごいようですよ。今度は南でしょうか」
 「うーん、南か」
 私は耳を立てた。
 「中川さん、どのくらい出ているんですか」
 「正確な話ではなかったのですが、もう数十人は下っていない感じですね」
 これは明らかにエマージェンシー≠ナはなかろうか。私は興奮の胸をおさえて外に出た。
 直感的にひらめくものがあった。急げ!ダッシュ! 九州の保健所の総なめ調査だ。ここで前回の予備調査は大いに役立った。保健所の調査票が全部調べられる。一日で数字が出る。なんと六十三人の患者がでている。大変じゃあないか! 防疫課へ電話を入れたら春日技官がいた。
 「春日さん、ついに出ましたね。北海道もあるが、これは去年の残りと見ていい、しかし今度は南ですよ」
 「うーん、その気配のようですな。今、何人ですか」
 「六十三人ですよ。春日さん、エマージェンシー、とみますか」
 「エマージェンシー・・・・・・でしょうねえ・・・・・・」
 この情報に平山博士は多くをいわなかった。
 「じっと見ましょう。学問は今、何もいえないのが本当です」
 
 それは明らかに昭秘三十六年夏を見通すエマージェンシーの前触れであった。北海道の悲劇はつづけて二回くりかえされるかもしれぬ。これをきっかけにポリオとのたたかいに立上がることを怠るなら、一年近くこのために費やしてきた記者は、その取材を何のために誇れよう。その夜七人の記者たちは、私を日常の仕事から完全に切り離すことをきめてくれた。
 「わき目もふらずポリオに突走れ!」
 それから三週間、私は執拗に誰彼なしに、机で、廊下でつかまえては、ポリオ根絶の放送キャンペーンの開始を説いた。
 「本当に今、立ち上がらなければ、また去年と同じ大流行がくる。厚生省がなんといおうと、われわれはこれを大流行だというべきだ。われわれはまずこの大流行と勝負してこれに勝つ。そしてそれを足がかりにして世論を高め日本からポリオを消すのだ。ポリオというのは小児マヒですよ。いいですか。ソークワクチソを早くうつ。うちまくる。どうせまた足りなくなる。足りたくなるようでなければ駄目だ。その時までに生(なま)を間に合わせる。そうそう生ビールの生ですよ。うまいヤツがあるんですよ。本当に甘いヤツ。砂糖が入っているんだから当り前だ。避妊薬だって飲む薬が出る世の中だ。ポリオにあって不思議はない。うまい理屈があってね。今までのようにポリオウィルスを殺して注射するのではなく、毒のない生きたポリオウィルスで、え? いや、それがあるんですよ。作ったのはセービン博士。まあ、いってみれば善玉のウィルスですな、それを先に飲むと腸の中をこれが占領しちまってね、後から猛毒のウイルスが入ってきても受けつけないんですよ。借地借家法のようなものだ。おまけにポリオは人間の身体の中にしか住めないから、日本中の子供の腸の中を善玉のポリオウイルスにしてしまえば、悪玉のポリオウイルスは死に絶えてしまうんだ。これが根絶。どうです」 
 「勿論、学者の意見は大切ですよ。困ったことに日本の学者はハッキリ結論を出せるほど勉強していない。実験には三年かかるといっているんだが、そんなのんびりしたことは許せない。その間少なくとも数千の子供がポリオにかかりっぱなし。学問のフンギリを急ぐべきだ。外国では結論が出ているんだ。ここまでくれば日本の学界に急いでもらおう。だが今までの重い腰を上げさせるには、それだけのキッカケがいる。そのキッカケが九州大流行の赤信号なんだ。放っておけるか。学問と政治に向かって世論を燃やそう」
 「ねえ、それが日本ならできるんだ。防疫には都合のいい島国だ。生ワクを一斉投与するには行政網は完備している。衛生思想もわりに高い。あとは世論だ。考えてみてくれないか。NHKがある朝いっせいにチャイムで合図する。日本中の子供が、いっせいに生ワクチンを飲む。ボンボンだから学校の先生だってやれるんだ。日本にピタリとポリオがなくなる。世界ではじめて! 素晴らしいじゃないか。やろうじゃないか」
 
 Kデスクの家は狭かった。夜中眠っているところをたたき起こされて、面会場所は半坪ほどの玄関しかない。私は下駄を並べてその上に腰をかけ朝までぶった。Kデスクは政治部出身。
 「哲ちやん、おれのカンだがね。ソークはアメリカのもの、生はソビエトのもの、日本の政治体制が抵抗するところはないかな。それにソークはうしろに大資本がある。国産も始まった。ヒューマニズムだけでいけるかな?」
 「生ワクはねえ、初めアメリカのセービンが作った。アメリカの人ですよ。それを一九五七年にソビエトがもらいうけて先に実用化した。しかしこの面では米ソは毎年美しい学問提携をやっている。セービンもソビエトヘ行って研究発表までしている。学問とヒューマニズムが政治の争いを超えて産み出した、この生ワクチンこそは、政治の色メガネや大資本の思惑を、愛情の世論でつぶしてみる数少ないチャンスですよ。これができなければ、NHKは歳末助け合い運動だけになっちまう。おれは自分を記者とはいえない」
 夜が白むころ、二人に酒が入った。
 「そういえばおめえ、二年くらい前からポリオの話をしてたな。おととしケガの入院を見舞いに行ったときも、ポリオの話をきいたおぼえがある。記者はこういうとき目が光る。警視庁時代の、ほれ、ニセ札第一号や、誘拐犯の本山事件のスクープを抜いたとき、おれからみればその時の顔だな。どえらいネタだ。おれはデスクとしておめえのカンに乗る。勝たせてやりたいよ」
 「世の中に向かって記者として何かじっくり役立ちたい。といえばキザかな・・・」
 「だけどNHKの大機構をどう動かすか、苦労するぜ」
 Kデスクはキャソペーン支持にふみ切ったし、その夜の酒はうまかった。だが、ポリオ根絶大キャンペーンの開始の号令がすぐ簡単に出るわけではなかった。しかし、そんなことにはお構いなく、私設ポリオチームから連日出されるポリオ連絡やポリオ情報は、NHKの全国通信綱に、ポリオの足の速さと争いながらポリオという言葉を伝染させて行った。巨象は、はじめひとにぎりの社会部記者の起こしたそんな小さな旋風に気をとめずにいた。寛大であったというよりも、巨体の神経はそれを見逃していたというべきだろう。しかし驚くほどの影響をつくり出していく既成事実の積み上げは、巨象の行くべき進路を徐々に動かしがたく決定していった。
 「うちの首脳部は小児マヒキャンペーンをおこす方針をひそかにもっているらしいぞ」という漠然とした常識がNHKの中を固めていった。
 「そうでなければ、こんなに多くのポリオ情報が全局内に流れつづけているはずはない」
 キャンペーンの開始号令だけを待っているムードであった。
 
 三月二十四日、報道局緊急部長会が開かれた。鈴鹿社会部長は昔、現役時代「日本の素顔」に清水次郎長の乾分を出演させて、テレビでバクチをみせて話題をおこした人物。ポリオチームを抱えて苦慮していた。三カ月も資料を眠らせた。チームは噴っているだろう。気持はわかる。だがポリオはむずかしい。それに放送局の内は複雑だ。急げば潰される。だが部長としてもう何とかしなければならない事態だった。その日、熊本の流行がもう八十人をこえたというポリオチームの丸秘情報をみて鈴鹿部長はふみきった。バクチかもしれない。だがサイコロは振られているではないか。おれも情熱に加担しよう。緊急部長会では社会部長の肚をみんなが聞く番だった。
 「社会部としてはぜひともやってみたいと思います。あるいは、NHKにとってこれまでにない決断を強いられることになるのかもしれません。でも私はバクチだとは思いません」
 鈴鹿社会部長の目は大きく丸い。それがもっと大きかった。部長はこぶしを握りしめていた。それがぶるぶるとふるえていた。それで決まった。すでに未公認≠フポリオチームが何ヵ月も活動しているのだから、事後承諾のようなものともいえたが、NHKとしては例のない大英断だった。部長が社会部の部屋へ帰ったとき、私は遊軍デスクにうしろむきに立っていた。鈴鹿部長は私の肩をひとさし指でぐいと突いた。「おい、はじまりだよ。「ふりむいた目もものすごく大きかったぞと部長はあとでいった。長く待っていた瞬間だったのだ。ポリオチームは大手をふって歩けることになった。直ちに十数本のキャンペーン番組企画が練り上げられる。何といっても、最大の基礎となるのは「ポリオ発生数即日集計」。自信のあることではなかった。はじまりだといっても別に新しく予算も人手もふえたわけではない。できるところまでやるしかない。即日集計は四月十五日からスタートすることに肚をきめた。日本中で発生するポリオ患者を、正確に医師から保健所へ報告を求めるのが午後五時半。保健所から各県衛生都へ報告をまとめる。それが六時半。それらの報告をNHK各放送局でまとめるのが七時、それを東京ポリオチームがうけとるのが七時半。一枚の「.ポリオ日報」となる。 
 患者の即日集計はそれから半年、全国の通信網と全国の保健所を結んで緻密につづけられた。ポリオ日報は「本日発生」 「本日死亡」 「昨年同日発生」 「昨年同日死亡」 「本日総計」など横に八コマ、北海道から九州まで縦に六十二コマ、合計四九六コマ。毎度この四九六コマがきちんと埋まるかどうかは、この夏に予想される数千の規模のポリオ流行を世論に強く認識させるか、黙殺させてしまうかのわかれ目であった。日報集計が成功すれば、この一冊のポリオ日報綴りこそが.三十六年夏の世論を燃やすポリオ騒動の震源地となるはずであった。
 いったん動き出すと、巨象の地響きは大きい。
 キャンペーンの基本方針は、
 第一に、この夏のポリオ流行の危険を明らかにすること。
 第二に、一日も早く一人でも多くソークワクチンの注射を浮びかけること。
 特に第三に、生ワクチンの啓蒙につとめ根絶≠フ目標をすっきりと打ち出すこと、とした。
 大切なことは「治療」ではなく「予防」である。「撲滅」ではなくて「根絶」である。
 すでにかかってしまった人の問題は、この際はむしろきっぱりと切り離した。
 涙の美談はもう後まわし。
 美談がいらなくなる状態を作り出すのだ。
 かくて四月第一週からいっせいに放列をしいたキャンペーン番組は盛観だった。
 六回シリーズのニュースルポ「小児マヒ流行期を前に」は、夏のポリオ流行の危険とその準備態勢を精いっぱいえぐった。
 「時の動き」をはじめ、定時番組だけでも「小児マヒと戦おう」 「明日を明るく」 「療養の時間」 「都民の時間」 「主婦の時間」 「今日の問題」 「時の表情」 「我家の健康」 「町から村から」 「茶の間の科学」 「婦人ニュース」等々。それにスポットやディスクジョッキーなど、ポリオ! ポリオ! の叫びは日を追うて拡がっていった。
 ふつうNHKでこの種の企画をたてる時は、数カ月という期間をかけて周到な計画が練られ、多くの会議を経る。
 その経過がほとんどなく、しかもNHKにかつてない大キャンペーンが忽然と始まり、ふくれあがりながら爆発していったということは、一大異変といわねばならない。
 放送史上の異彩であったが、このとき各新聞のテレビ・ラジオ欄は概ねこれを黙殺した。
 わずかに「毎日」が、このキャンペーンスタートを報じたのみだった。他社の仕事はできるだけ黙殺するというマスコミの通弊というべきか。
 巨象は、しかし、独りで丸木橋を渡りはじめたのである。
 夏まで、もう三カ月であった。
 
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