9 六〇〇〇キロのうらみ

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 三月二十五日から、イスクラ産業社長、石川士郎氏はモスクワ、ウクライナホテル四七三号室でおちつかない日を送っていた。
 ガランタミンの輸入決定にすべてを賭けて、あるだけの金をかき集め、家まで抵当に入れてモスクワヘ飛んだのは、一世一代の大バクチであった。
 さっそくメディックス・ポルト(輸出入公団)を訪れた。この次の勝負を生ワクチンの輸入とみて一日も早く輸入契約の交渉をはじめておこうと考えたのは、さすがの嗅覚であった。
 ところが、ソビエトという国もせちがらい。何の信用も実績もない商社とは取引はできぬという。
 「ガランタミンを初輸入する会社だ」といって胸を張ったが、
 「そのニュースを確認しよう」という。とうとう門前払いを喰わされて、三月二十七日の電報がくるまで待つことになった。
 東京−モスクワの間は時差六時間、東京より六時間おくれてモスクワの陽が沈む。だから二十七日に東京で薬事審議会がガランタミンの輸入許可を決定すれば、モスクワでも陽のあるうちに電報が届く。そわそわしながら彼はまだ雪の残るモスクワ河を見下ろすホテルの一室で待った。
 ところが、こない。
 二十七日は、いらいらしながら暮れた。
 二日目もこない。もう食事は石川氏の喉を通らない。室の中をぐるぐる歩き廻りながら窓の外を眺めると、モスクワ河の流れがやけにゆるやかでそらぞらしい。万一、審議会が延びたのならそれはそれで電報がくるはず。何の連絡もこないのは、よほどのことがあったのかもしれない。
 三日目、彼は真空のような部屋の中で、げっそりとやせて気が狂いそうになった。
 (ああどうする。会社をどうする。家はどうする。日本にも帰れまい。早合点して飛び出したのがいけなかったが、それにしてもあの記者の奴! あんまり自信たっぷりにいうもんだから、ついそのまま飛び出してしまったが、こんなことなら自分で結果を確かめるのだった・・・・・・)
 東京までの六〇〇〇キロをこえて、怨みがこみ上げる。コニャックをがぶ飲みしつつ、ベッドに顔をうずめ、頭をかきむしってウーンと低くうめいた。自分の声が異常であった。
 
 東京の三月二十七日は珍しい大雪の翌日だった。
 覆面の新薬特別調査会は、この日わざわざ本郷の東大病院に場所を移して秘密会を開いた。四時間も会場の傍らに張り込んでいた私は、この決定をすくいあげて夜七時のニュースに叩きこんだ。テレビで特ダネをみせるには、ガランタミンの本物がほしい。東大小児科に実験用として送られていたアンプル十本入りの箱を探し出すことができた。
 その十本入りの箱には二本アンプルが足りない。今福アナウンサーは小指でその隙間をうずめながら説明した。
 「これが今度はじめてソビエトから輸入されることになった小児マヒの治療薬、ガランタミンの実物です。
 最後に一言つけ足すのも忘れない。
 「しかし、今年もポリオの流行期はもう遠くありません。ガランタミンを使わなくてもすむように、一日でも早く、一人でも多くワクチンの予防接種をしましょう。ポリオはやがて根絶することができるのです」
 近頃胸のすくスクープであった。各社は、まる二日おくれてそれぞれ二十九日夕刊で追った。扱いは大きかったが、ガランタミンの写真はなかった。無理もない。現物≠ェないのだ。
 
 これがどうしてモスクワに届かなかったのか。電報はその夜、間違いなく打たれていた。しかし二人の社員は、喜びのあまりウクライナホテルの部屋番号を書かなかった。
 このあたりもソビエトらしい。
 ホテルのフロントは番号のない電報を受け付けなかった。日本人でイシカワという人がもう一人レニングラードにいた。電報はそこに回送された。人違いとわかって今度はモスクワのヨシカワ氏へ、これがたまたまNHKのモスクワ特派員であったことから、事情を知っていた吉川特派員によって、電報が石川氏に届いたのはまる三日後のことだったのだ。
 電文には、不安な気持ちで留守番をしている二人の社員の喜びが溢れていた。
 「バンザイ、バンザイ、ガランタミントオッタ」
 これでは部屋番号も忘れるだろうと、涙といっしょに笑いがこみ上げてきた。腹もむやみにへってきた。電報を見た石川社長はそのまま横っ飛びにメデックスポルトへ駆け込んだ。ガランタミンを初輸入する輝かしい実績を手にした商社の社長として、今度は堂々と生ワクチンの輸入交渉をする資格を認められる。さあ、生ワクチン輸入交渉に初名乗りだ。
 それから二週間、ボンボン生ワクチンの輸入契約交渉は精力的に続けられた。
 しょせん、根本は国の方針にかかわるのだから、商社の決められる範囲は限界がある。しかし石川氏は懸命にくいさがった。
 ついに四月十日、石川氏はその輸入仮契約の調印にこぎつけた。内容は輸入量百万人分のボンボン生ワクチン。単価は一セント(三円六十銭)総額一万ドル。ただしこれも売り手市場でまったく対等というわけにはいかず、仮契約後、半年以内に輸入できない時や契約を破棄する時は、石川氏側から一〇%つまり三十六万円の罰金を払わなければならない、という厳しい条件つきであった。
 石川社長はメディックスポルト総裁ゴロビン、副総裁フィリモノフと共に二枚の仮契約書に署名をした。非常に不平等な条件付契約ではあったが、何はともあれ輸出ルートの一端を握ったことと、それをはっきりした契約書にして持ち帰れることは、小商社の社長にとって最大の獲物であった。
 見本としてボンボン生ワクチン十二箱を、カバンの中に大切にしまって、彼はいさんで故国に飛びたったのである。石川氏はこのボンボン生ワクチンを抱いて、コペンハーゲン経由のスカンジナビア航空機で三十六年四月二十一日夕羽田へついた。冒頭に紹介したように、石川氏がとなりの席の小池勢津子さんのポケットをかりて税関を通過したのはこの時のことである。
 
 
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