四部 本日発生ゼロ
 
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     14 生ワクチン緊急投与
 
 厚生大臣古井喜実とはそういう人であった。
 この緊急事態をなんとかしなければならぬ、という気持はもう長く頭にあった。それが政治家たるものの判断であるはずだった。だが事情はそんなに簡単ではない。やや古風で磊落(編注:らいらく)な古井厚相にしては珍しく眠れない日が続いた。考えると食事にハシもつけぬ。夫人から山吉秘書に、「また今朝も何も食べないで出かけましたから、昼食に気をつけてやって下さい」という電話がかかることが再々であった。
 古井厚相にふんぎりを与えたのは、一〇〇〇人突破のニュースであった。その日も厚生省では次官、官房長、公衆衛生局長、薬務局長らだけで課長も入れず、最高幹部会を開いて対策を協議した。結論が出なかった。生ワク協議会にもいろいろと感触を探ってみるが、いっこうはっきりした答が返って来ない。
 大臣が高部防疫課長を直接呼んだのは六月十七日のことであった。
 「一〇〇〇人突破は政治決断の時だと思うが、生ワクチンについて役所内の意見はどうだね」
 「慎重諭が大勢です」
 「それは困ったな。しかし君は大臣を助ける行政官としてどう思うかね?」
 「文献上からいえば生ワクチンなら即効があります。患者が減ることは間違いないでしょう」
 「学者がそう考えてくれるといいがなあ」
 大臣は真剣な表情でひとりごとのようにいった。高部課長は、大臣がはっきり生ワクチンにふみきったなと感じた。十九日、厚生省に母親たちの大動員の陳情の波が続いた日、厚相の気持は大きく動いた。(こんな状態を放っておいては政治ではあるまい。生ワクチンの方がいいのなら、一か八かでもやるのが正しい) 
 彼にとってはデータでなく、政治判断であった。ハッキリ肚を決めたのは翌二十日、厚生省への車の中だった。秘書も乗せず、吉祥寺から四十分、じっと腕を組んで空をみつづけながら考えた。国会議事堂の塔が視野に入ってきたとき、(これで決めよう)と思った。「政治家としてこの議事堂に向かって最善をつくすべきなのだ。」 古井氏は厚生省へつくなり、すぐ尾村公衆衛生局長を呼んだ。 
 「生ワクをやろうじゃないか」
 尾村局長は大臣の目をしばらくみていた。古井大臣はまたいった。
 「協議会が快く賛成してくれなくても、大臣として私は決意した。尾村君、協議会への話をしておいてほしい」
 尾村局長は背筋をキーンと感動が走るのを感じた。
 「大臣、学者にもぜひわかってもらいましょう。努力しましょう」
 「うん、だが、くれぐれも押しつけるなよ」
 あご骨がつっぱって、いかにも意志の強そうにみえる古井厚生大臣はそういって笑顔をみせた。
 その日の午後、大臣は院内で、生ワクチン緊急一斉投与のふみきりについての大臣談話を書いた。国定事務官から草稿を取り寄せたのだが、とてもこの人は、他人の文章では気にいらない。はじめ「学界の意見はなお時日を費して調整すべき部分もあるが」と書いたが、最後に「学界の意見は意見としても・・・・・・」と改めた。結局全文書き直してしまった。「責任は私にある」という一行を書き入れて、むしろ気持は楽になった。本人でなければ書けない部分であった。
 一方尾村局長は、翌日二十一日の午後へむけて、生ワク協議会の幹事会を緊急召集した。
 「内容は極秘ですが、火急にご相談したい件がありますので・・・・・・」
 この会議ははじめ、例によって目黒の国立予研大会議室が予定されていたが、ここは目につきやすく、警視庁からの情報で陳情の動員にとりかこまれる心配があるということで、急いで会場を国立栄養研究所に移した。集まったのは協議会の田宮会長以下柳沢(予研)、北岡(予研)、高津(東大)、川喜佃(千葉大)、甲野(京大)博士ら十数人。異様な緊張の中で尾村局長が三十分にわたって話をした。患者発生の動態、今後の見通しを詳しく述べ、政府と学界のあり方にもふれたあと、緊急一斉投与について、
 「本日は右か左か、はっきりした結論を出していただきたい」
 ときびしく結んだ。この三十分はかなりの名演説であった。尾村局長は、
 「大臣から『おしつけるな』といわれていましたので、非常に慎重にものをいいました」といい、同席した高部課長は、尾村局長の話は全くおだやかなものだったと評しているが、聞く側の学者たちは、かならずしも受けとり方が同じではない。
 「賛成ですか反対ですかではなく、『厚生省の方針に反対しますか』という諮問だった」
 「厚生省がすでに覚悟をかためているのがわかった」
 という人が多い。劇的な一場の空気だった。もちろん学者の中からも、
 「小事にこだわって大事を失うな」という強い賛成意見や、このままでは患者をさばききれないという現状打開論も出たが、一方、生ワクチンの毒性復帰のおそれはないかという根本的な疑問を提出する論議もあった。結局三時間の白熱した論議のすえ、田宮会長が、
 「大勢の意見としては、厚生省の考えているように、生ワクチンの一斉投与をやってみることも、あながち悪いことではあるまいということです」とまとめ、尾村局長がそれを引きとって、
 「学問的にはさらに長い時問をかけなければ結論が出ないのですから、今は単なるご相談にすぎなかったのですが、そのようなご意見をいただいてありがたく思います。厚生省としてはやらせていただきましょう」と緊張した表情できびしくいいきった。
 何か落ちつかない空気が鎮められたような静かさが会議場をよぎった。
 尾村局長は高部課長の顔をちらりとみるなり、もう無言で車の方へ急いだ。すぐ大臣へ報告だ。
 「うん、協議会はどうやらこうやら反対しない。それは、よかった。ご苦労だった。よし、それならぐんとやろう」
 厚相は武者ぶるいしていった。もう一度談話に筆を入れた。
 『専門家の意見は意見としても非常対策を決行しようと考えた矢先、これらの方々もこのことに理解の態度を示してくれたことは何ほどか私を勇気づけた・・・・・・』
 次にこの決意について大平官房長官に電話した。
 「貴方のお考えの通りにされるがよかろう」
という返辞だった。
 それから午後六時の記者発表まで事務局は大変な忙しさに目をまわした。
 中でも一番手間のかかったのは、消したり書いたりで真黒になった大臣談話のガリ版切りであった。これでは省内の記者クラブにも寝耳に水の大ニュースのはずであった。
 
 今にしても、それはまさしく大英断ではあった。追いつめられた九番打者がカーンとうった大飛球が観覧席上段に吸いこまれていくような小気味よい響きはあった。だが、この大臣談話の悲愴調になお問題は含まれていた。折から池田総理は渡米中、帰国後に内閣大改造がすぐ予定されていた。ソークワクチンか生ワクチンかという問題には、日本の子供の危機を救うのにアメリカの薬品を使うかソビエトの薬品を使うか、という政治配慮が伏在していた。
 主流派でない古井大臣の決定は首相の留守中の判断として変更される不安はないであろうか?  政府自身が育成した国内ソークワクチン業者の打撃は大きかろう。その反撃はないであろうか? おまけに緊急一斉投与と一口にいっても、それは緊急輸入を意味するから、千万単位の生ワクチンの輸入先は確保されるのか? また財源はどうなるのか? しょせんはすべて思い切りのいい古井厚相の責任≠セけで終わってしまうことはないのだろうか。それらを急いで取材せねばならぬ。私はまず東大の平山博士に電話した。
 「決定は間違いありません。昼すぎに高津教授に呼び出しがあって、内容はいえないが重大な議題だから必ず出席してほしいということでした。それまではまったく協議会には相談はありませんでした。暗くなってから教授が帰られて真剣な顔で私に『政府は生ワクの緊急輸入にふみきったよ』 『そうですか』といって二人で顔を見合わせました。つい今し方のことです」
 「相当つまった感じのものだったようですが、協議会側としても問題はありませんね?」
 「接種部会長として高津教授ははっきり賛成ですから問題はないと思います。しかし、・・・・・・」
 「え?」
 「とうとうやりましたね」
 無量の感慨が顔の見えない電話線の双方に通じ合うのが感じられた。
 さらに官邸詰のS記者と経済担当のH記者に連絡する。
 「内閣改造と古井談話の悲槍調、そのあたりの関係をもうひと押し政府首脳と財政当局にあたってもらえないか」
 もしそれが政治の理由で覆ることがあるなら、われわれは今は全力をもってこの厚相決定を守りきる態勢を整えねばならないからだ。
 まだまだ喜ぶのは早トチリだ。
 ほかから入った情報では、寝耳に水とおどろいたソークワクチンの業者たちが、厚生省の方針の打診にかけつけているという。間もなくS記者の返事が届く。大平官房長官の腹の内はこうだ。
 「今患者が一〇〇〇人出ているが、ソークワクチンでいくとこのままの情勢では今年中で患者が数千人になるという計算が成り立つそうなんだ。これは危機なんだよ、君。生ワクチンでいけば副作用などの関係で、悪ければ二、三百人くらいの患者は出るかもしれんという意見もあるそうだ。だが、それなら、学者はなんといわれるかはしらないが、政治の立場からは生ワクチンを選ぶのは当然のことだな。国が奨励したソークワクチン業者の今後については、また別に十分に考えればよいことだ。総理は以前からポリオ問題には強い対策を指示しておられていたのだから、今回の処置も特にアメリカまでことわるまでもないさ。いや、厚生大臣の独断じゃあないよ。事前に連絡はあった。あなたの思い通りになさるがよかろうと伝えておいたさ」
 官房長官の判断の底に「ポリオ日報」はがっしりと坐っていた。
 ふみきりは一〇〇〇人突破、そして今年中に数千人という判断。それを危機だと官房長官がいった。腹からこみ上げてくるうれしさ。
 政治の中枢をゆり動かした力は何だ! 小鼻のふくらむような興奮と喜びがむくむくとわき上がる。それは「ポリオ日報」なのだ。
 大蔵省のH記者からも回答が入る。
 「ことが人道問題だから、予備費の支出について大蔵省に異存はない。多分おおまかな試算では五億円程度になると当局はみている」という。態勢は整ったのである。
 ポリオチームもはじめて乾杯した。「おい、生ビール、生(なま)でやろうよ」
 あすの朝刊の扱いに話がいく。
 
 翌朝の各紙とも、「千三百万人の生ワクチン緊急輸入」を揃って一面トップ大見出し。最大の扱いだ。もちろん首相訪米中の記事は横にトップをゆずっている。政治記事でないものが一面のトップとなった例は最近ない。翌二十三日の朝日新聞は「天声人語」でポリオ問題をとり上げて、さらりと一行次のように書いた。
 『NHKは早くからラジオ、テレビでキャンペーンを続けていた』
 本当は決してさらりと書ける一行ではない。同業者をほめるなどということはめったにあることではなかった。ほのぼのとした一行だった。
 
 生ワクチンの一斉投与と決まっても、そうなればそうなるで、また、世論に不安はあった。二十三日(金)、千住保健所でトラブルが起きた。その地域は今月の末「流行のおそれある地区」として五〇〇〇人の子供に生ワクチンを実験投与≠キることに決まっていた。その打合わせ会に保健所側や医師会、町会代表三十人が集まったのだが、そこで配られた承諾書が問題だった。
 『生ワクチンの効果の調査研究に協力するため、私どもの子供をその研究計画に参加させることを承諾いたします』という文面である。「まるでモルモットじゃないか!」 「絶対大丈夫か?」 一言こういう言葉が飛び出すと、不安の火がどっと燃えうつる。保健所側は本当のところ責任のある返事をする自信はない。
 「厚生大臣は保証しております」
 これでは不安の方が強くなる。まるで責任者のいない中で、靴の上から足をかくようなやりきれない議論が続いた結果、とにかく来週から投与ということで一応の話はまとまったが、集まった人たちはなお半分だけ不安な表情を持ち帰らなければならなかった。学者が出て来て、「安心して下さい」といってくれたらどうだったろうか。学者がまだものをいえない事情にこそ問題があったのだ。
 同じ日、あと三日後に迫った九州の生ワクチン投与の現地指導のため、平山博士は特急「はやぶさ」で福岡へ発った。町に漲る不安とは全く違った、落着いた自信の表情がここにはあった。
 「一生懸命説明してきますよ」
 平山博士を何人もの若い研究者が見送っていた。雨の夜のプラットホーム、静かな風景だった。
 
 六月二十四日(土)、厚生省と大蔵省の話合いでようやく生ワクチン緊急輸入の費用として四億九〇七一万四〇〇〇円の予備費支出が決定した。これで六歳以下の生ワクチンが無料となり、このほか冷蔵庫七八八台、低温冷蔵庫四〇台、ドライアイスなどが買い入れられた。だが困ったことに、ソビエトのボンボン生ワクチンの値段と予算が折り合わない。とりあえず厚生省はカナダに三〇〇万人分を発注した。
 ポリオチームヘ、和歌山でポリオのニセ特効薬売りが現われたというニュースが入る。家庭の主婦に茶色の粉薬を見せて、一袋七五〇〇円で売りつけた。全くニセの漢方薬だった。
 この日大阪大学医学部長の西沢義人教授は大阪で開かれた日本小児科学会大阪地方会で、三価混合ワクチン(T・U・V型を合わせたもの)の使用についてかなり厳しい警告を発した。
 その要旨は、@ポリオの流行には異なる型があるので、それぞれの型に有効な生ワクチンを選ぶ必要がある。AT・U・V型の生ワクチンをそれぞれ一カ月おきにのませること。B生まれて六カ月以内の幼児には効果がない、というものだった。
 この発表は混合ワクチンのみについてかなり否定的な意見を表明する形となっているが、西沢教授の意見は実はそれ以上に、西沢教授が生ワクチンの一斉投与そのものに間接的な反対論をとなえたものとして、また新たな生ワクチンヘの不安の声を高めた。
 ポリオチームは予研の北岡博士に相談して、北岡談話を大阪に送る。「混合ワクチンで不安のないことと、生後二ヵ月から生ワクチンを飲ますのが国際的な常識」だというもの。二つの意見のどちらをとるかは、もはや母親のものだ。母親の愛情を信じよう。
 こんな状態ばかりではない。世論の健康さを示すニュースもある。明後日の投与をひかえた福岡県板付地区では、承諾書に署名した者は今日までに八七%に達した。一五七〇人のうち生ワクチンを断わった者は一三八人のみ。世論の理解は、ともあれかなり高いといえるのだ。
 この日の東京都の患者は百人に達し、全国総計は一一七八人となった。この一週間の発生数は一五一人で、一週間単位の発生率は最高となった。
 
 六月二十五日(日)、オランダ航空から三万人分の生ワクチンが、日本の流行のためにと羽田空港に贈られてきた。
 六月二十六日(月)、福岡県板付、熊本県砂取で生ワクチン投与の第一日目。実験%蒲^であるので承諾書も必要だし、慎重に体温三七度以上の者は投与を見合わしてもらうなど、予診で二七、八%もはねたので、集まった人は多かったのに、実際には板付で六九%、砂取で七四%の成績であった。熊本と同じく大分県、福岡県でもNHKのポリオ巡回班が県内を回りはじめた。
 六月二十九日(木)、東京足立区で初めての生ワクチン投与。雨の中を午前十時から公民館など六カ所で二〇〇〇人の幼児が対象である。傘をさして順番を待っている人の表情はやはりどことなく不安げ。
 「やらない方がもっと不安ですからねえ」
 「厚生省を信用するしかありませんよ」と、お互いに励ましあっているような口ぶり。シロップの生ワクチンのほんの一匙(編注:さじ)のあっけなさを終わってしまうと、一様に母親は「どう、甘かった?」と子供の顔をのぞく。帰る人はいっそさばさばしてしまうが、中には今日は子供が病気だからと、そっと母親だけがみんなの様子を見に来ている人もあった。
 新聞の扱いは、その日の雨のことにばかり紙面をさいて、生ワクチン投与には小さかった。
 六月三十日(金)、NHK婦人の時間「私たちの話題」で、常任司会者の評論家坂西志保さんと朝日新聞辻豊氏が私をゲストに招いた。NHKにゲストで出演とは妙な話。
 「今日のゲストにお迎えした上田さんは、小児マヒをなくそうというキャンペーンを一年余りも前から続けてきた人です」という紹介。ベテランを前にして私は楽だった。
 生ワクチンの時代が来た。しかし、狙いは流行の阻止ではない。世界初の根絶なのだ、と話はなめらかなテンポで進んだ。
 「空に人工衛星がとぶ時に、地上で目に見えないウイルスとのたたかいに人間が勝つ。素晴らしい時代ですね。昔ポリオがありました、と三人でまた対談したいものですね」
 今日六月いっぱいで患者は一二九六人、なお衰える様子はない。
 
 七月一日(土)、厚生省はやっと、ボンボン生ワクチン一〇〇〇万人分をソビエトヘ発注した。同じくこの日、生ワク協議会の海外調査団の柳沢謙団長ら八名が羽田を出発した。一三〇〇万人分の緊急投与を決めた後とあっては、海外調査が色あせるのも無理はない。マヒ協では、この大事な時に学界の幹部がいなくなるとは何事だ、と代表団の自宅に厳しい抗議をおこなっていた。むしろ、ひっそりとした出発であった。
 東京都は江東区北砂町二丁目から十丁目を第二次流行地に指定。宮城県小児マヒ対策協議会も発足。琉球政府からも厚生省へ、沖縄の小学生一〇万人の生ワクチンの配分を要請してきた。沖縄の患者は三十七人を数えていた。「朝の訪問」という番組でも、三国一朗とリンダビーチの話はポリオが中心。
 「イチニチモウ、ハヤクウ、ナマワクチンオウ、ノマシーナケレバネッ」
 朝の訪問≠フ後の番組を轟夕起子が引きとる。うまい語りだ。
 「だいぶ前のことですが、アメリカのある野球場で試合の最中突然ライトが消えました。騒ぎ出した人たちにマイクが呼びかけました。皆さん私たちがこんなに楽しい時をすごしている時に野球も見られないポリオの子供たちがあるのを思い出して下さい。可哀そうな子供たちのため、帰りにぜひ空缶に十セントを入れて下さい。この意見に賛成の人はマッチの火をすって下さい。・・・・・・小さなマッチの火が次々にともり野球場の夜を美しく照らし出しました。人々はすがすがしい気持で家路をたどったのです・・・・・・」
 ポリオはもう流行語であった。NHKの番組の中に『ポリオニュース』というタイトルのニュースが、週二回ずつ登場したということは後にも先にも珍しい例外だ。
 また週三回、近藤宏二テレビドクターが『ポリオ情報』を解説した。
 「いいデータを出してもらえます。こんな張りのある仕事はありませんね。」 近藤ドクターもそういって目を輝やかせた。
 放送局にはしかし、こんな投書もあった。
 「投与というのは何事か。投げ与えるといういい方はまことに国民を愚弄するものである」 投与というのは単なる医学用語に過ぎなかったが、こんな言葉も気をつけなければならないものだと、スタッフはテレビドクターと話し合った。
 生ワクチンの正しい知識を、そしてポリオヘのたたかいの決意をより正確に、より大きく拡げていかなければならない時であった。マスコミが世の中のために本当に役立つチャンスであった。
 
 一三〇〇万人分もの生ワクチンがいっせいに投与されるということは、世界ではもちろん初めてのことであるから、確かめておかなければならないことが多かった。
 生ワクチンは生きたウイルスであるから、マイナス一五〜二〇度Cで完全に保管されなければならなかった。その状態でくまなく日本中に送り届けられるかどうか。そこで生ワクチンが、日本中の山奥や交通の不便な僻地までどんな手段で、どれくらいの時間で、実際に送り届けられるかという実験をしてみることになった。
 この実験は、七月九日の夜から十日にかけておこなわれた。出発地点は東京目黒の国立予研の冷蔵庫、目的地は岩手県葛巻町の小学校の校庭。日本のチベットといわれる山奥。国立予研の手持ちのワクチンが使われることになった。
 九日、夜八時半の急行「北斗」に生ワクチン原液を入れた魔法瓶が積みこまれた。魔法瓶は十日朝五時半、盛岡駅で降ろされる。ここで魔法瓶のドライアイスが詰め替えられる。駅には県警のジープが待っている。そこからはストップウォッチを持った警察官が同乗した。ジープはデコボコの山道をひた走りに山奥の葛巻町に走る。目的地には東大の松本教授と平山博士らが待っていた。時間は「十二時間二七分二秒」、直ちに薬の中の効きめ、つまり力価など基本的な検査がおこなわれる。実験は成功であった。検査を終わった生ワクチンは、十四の会場に集まった四百人あまりの子供たちにいっせいに与えられた。
 一番山奥の葛巻町に輸送が成功したことは、日本の行政制度と運輸網が、こうした伝染病のたたかいに適していることを証明するものであった。
 この実験にはもうひとつの重要な意味もあった。本来生ワクチンは、生きた本物のポリオウイルスを何代も何代も代がわりさせていくうちに、毒のほとんどないウイルスが見つけ出され、それを増やしたものだから、人間の身体の中に入って、また何代も何代も代がわりをしていくうちには、コースを逆にたどって、祖先帰りの毒性を復帰することがあるかもしれない。優しく飼いならされた猛獣が、ふいに狂暴な血をよみがえらせることがあるかもしれないという心配だ。熊本大の六反田教授や阪大の西沢教授の指摘はここのところをいうものであった。
 もちろんその研究も以前から進められており、ソビエトのチマコフ教授が二十二代までポリオウイルスを代がわりさせたが、毒性復帰が見られなかったという報告もある。しかし、万全を期するためには祖先帰りの心配がないように、一三〇〇万人に短期間にいっせいに飲ませることができれば問題はない。この実験はその可能性をも立証した。
 大成功であった。
 一方この日、モスクワから一本のニュースがとどいた。七月二日からソビエトを訪れていた生ワクチン協議会の調査団一行は、一週間にわたったソビエト保健省当局その他の調査を終わり、柳沢団長は、
 「生ワクチンの使用について今まで疑問に思っていた点が、だいたい納得できた」と現地で語ったという。
 そうしたいくつかの明るいニュースに送られるように、ソビエトのボンボン生ワクチン一〇〇〇万人分が十二日の午後、北回りスカンジナビア航空の特別機二機で羽田空港に到着した。特別機は乗客を乗せず、機内を零下一〇度Cないし一五度Cに冷房して、一番機に三〇〇万人分、二番機に七〇〇万人分を積んできた。異様なことに飛行機の塔乗員は頭から分厚いアノラックをかぶって降りてきた。夏だというのに機内の冷房があまりきいているため、こんな服装で操縦してきたものだった。空港には母親たち百人あまりが、子供といっしょに出迎えてバンザイを叫んだ。
 マヒ協の旗も立っている。生ワクチンは冷蔵運搬車五台に積み替えられ、とりあえず秋葉原の冷凍室へ運ばれた。
 かつてここに同じボンボン生ワクチンをポケットに入れて帰ってきたイスクラ産業の石川士郎氏は、人混みの中に受けとり人の一人として立っていた。ふと段違いの送迎用デッキに、小池勢津子さんも来ていた。目が合ったとき、少し離れて立ちながら二人には共通の感動が波うっているのが感じられた。ゆっくりとえしゃくをしただけで二人は言葉を交わさずに静かに離れた。
 空港は雨に濡れ、うすいもやが特別機の尾灯の点滅をあやしく浮き上がらせていた。
 
 この飛行機二機分のボンボン生ワクチンの到着までには、さまざまな話題がかくされていた。
 スカンジナビア航空で一二〇個のボンボン生ワクチンを持ちこんでいらい、石川社長は厚生省当局に向かって、生ワクチンの売りこみに懸命の努力を続けてきた。
 吹けば飛ぶような小商社のイスクラ産業にしてみれば、前の年、大手の貿易商社日商がソビエトのサューズ・ヒム・エクスポートとの間に、生ワクチン十五万人分の輸入契約を結んでしまったことは、本来はつけ入る余地のないほどの大きい壁であった。
 しかし、日本政府がアメリカのソークワクチン体制によりかかって、ソビエトの生ワクチンを受け入れる姿勢をなかなか示さなかったことは、かえって石川氏にとっては生ワクチンの売りこみ合戦に参加する突破口となった。
 十一月に入って、JOCCTUから総評に対して生ワクチン十万人分を送るという申し入れがあった際にも、厚生省は、
 「生ワクチンはまだ研究段階で、受け入れ態勢ができていないから」と輸入させない方針をとり、ソ連大使館に対して、
 「できれば生でなくソークを送ってほしい」と申し入れた。小社長にとって、勝負が振り出しにもどったほどの計算であった。
 厚生省がJOCCTUの寄贈をようやく受け入れと決めたのは半年後、生ワク協議会がタダなら貰って実験用にあてると方針を決めたあとの五月十二日のことであった。この情報が伝わったのは、五月二十二日に総評の岩井事務局長が古井厚生相を訪ねた際、初めて受け入れの方針が明らかにされたものであった。
 この時から、情報待ちだった商業ルートの動きが再び活発になった。石川社長はすぐ二日後の二十四日、メディックスポルト宛に生ワクチンの検査用原液を送れと電報を打った。早いもの勝ちである。
 総評とJOCCTUとのルートによって六月十日、一・五リットルの原液が飛行機で届けられ、予研で安全検査がはじまった。つまりこの段階で生ワクチン緊急輸入の下準備は、技術的には整っていたわけである。
 イスクラにとっては、ボンボン生ワクチンとともに持ち帰った一〇〇万人分の仮契約書は大いに有利な決め手となった。六月二十一日の緊急輸入決定の日、厚生省はイスクラ産業に連絡を送った。石川社長が例の仮契約書をもっていたからである。
 「三週間以内にソビエトから輸入できる生ワクチン、それも今届いている原液と同じロットの検定の不必要なものの最大量はどれほどか。一〇〇〇万人分、あるいはそれ以上の量でどれだけ値引きしてくれようか」
 イスクラは一歩有利な立場に立った。
 もちろん、生ワクチンふみきりのニュースとともに東西貿易各社はいっせいに引合い合戦の火ぶたを切っていた。厚生省としても初めからソビエト一辺倒ではなく、アメリカ、イギリス、カナダ、スィスの四カ国に輸出能力をあたってみたが、結局一部をカナダから輸入するほかは、一〇〇〇万人分以上はソビエトに輸入先を求めざるをえないことがわかってきた。
 ところが先方のソビエトからイスクラ産業に入った電報も、もう一方の日本生活協同組合へ入った回答も「生ワクチン一〇〇〇万人分を供給する。ボンボンワクチンは一〇〇〇人分一〇〇ドル、液状原液は一リットル(三万三〇〇〇人分)一五〇〇ドル」というものだった。つまりボンボン一人分は十セント(三十六円)というわけだ。
 これでは石川氏の仮契約書に書かれている単価三円六十銭という値段の十倍にあたる。三円六十銭の単価を見込んで予算を組み、大蔵省とも折衝して予備費の支出を計上した厚生省の計算はくるってくる。カナダ並の二十八円八十銭(八セント)の単価で予算を組み直してみてもまだ足りない。
 厚生省はすぐにも発注する予定だったソビエトヘの一〇〇〇万人分のオーダーを、慌てて中止し、外務省に調査を依頼した。
 放っておくことはできないので、厚生省はとりあえずカナダに最大量の三〇〇万人分を発注し、ソビエト分をイギリスのファイザー、ウエルカム両社の製品に切り替えることも考えたが、この方はさらに高値、しかも全部が保存や運搬に不便な液状ワクチンである。しかも一三〇〇万人分の生ワクチン全部が保存や運搬に不便な液状ワクチンでは、全国一斉投与の態勢がむずかしくなる。当局は頭をかかえてしまった。
 もう説明するまでもないことだが、実は厚生省が一人分三円六十銭というソロバンをはじいたのは、証拠書類であるイスクラの仮契約書にそう書いてあったからである。
 驚いたのはメディックスポルトから契約書の十倍値の回答を受けたイスクラ側でも同じことだ。二十三日朝、ソビエト通商代表部のグラジリン代表立合いで、石川氏はメディックスポルトに国際電話をかけた。さんざん待たせた末、先方の答はこうだった。
 「まことに済まぬが、調査の結果契約書の記入にあたってはゼロが一つ足りなかったのである。思うに、当方のタイプの打ち誤りに違いなかろう」
 冗談じやない。
 こんなに厳しい片務仮契約に調印させておいて、タイプの打ち誤りとは驚いた。結局一〇〇万人分一セントの仮契約は、罰金をかけない条件でイスクラ側から解除し、そのかわりソビエト側は一〇〇〇万人分について値引き交渉に応じるということになった。説明の仕様がないので、石川氏は致し方なく「一セントという値段は見本に限っての値段であった」と厚生省に弁解したものである。
 この引き合い合戦には貿易商社五社が参加していたが、結局七月一日の入札で最後に日商とイスクラがカナダの値段より○・一セント安い七・九セントでそれぞれ七〇〇万人、三〇〇万人分を入札した。このゼロ一つの騒動で、生ワクチンのソビエトヘの発注は一週間も予定がおくれてしまったのである。まことにソビエトらしい話であった。
 ソビエトらしい話といえば、もうひとつ。一〇〇〇万人分の注文をうけたソビエト側は、生ワクチンの最高権威チマコフ教授の陣頭指揮で実に十日間でこれを製造した。モスクワ郊外の飛行場からスカンジナビア機でボンボンを送り出したあと、タクシーを拾って「モスクワヘ」といったまま、教授は泥のごとく眠りこけてしまった。モスクワ市街まで二時間、市内を三時間走ってから運転手はふりむいた。「お客さん、どこまで走りますか。モスクワはもう終わりです」
 
 
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