15 追いこみ
 
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 最高の人気テレビ番組「私の秘密」でポリオを取りあげる日が来た。
 全国一斉投与があと三日に迫った七月十七日月曜日。その五日前にソビエトから生ワクチンを運んで来たスカンジナビア航空特別機の機長を『私』に、厚生省の尾村公衆衛生局長をゲストにしようという趣向である。放送キャンペーンとしては、いわば最高の見世場であった。データを豊かにするために、その日の日報の締切りは一時間繰り上げて、放送一時間前の午後六時半とした。
 ここで問題が持ち上がった。狙いとしては生ワクチンの全国いっせい投与をあと三日に控えて、生ワクチンヘの不安を一挙に解消するため、高橋圭三アナウンサーに最初の一粒をぜひ飲んでもらうつもりだった。
 それこそはながくキャンペーンの願いであった。ところが打ち合わせの担当プロデューサーは難色を示した。
 「何といっても大切なスターですから、生ワクチンを飲ませて大丈夫かどうか心配ですね。第一本人が飲むというかどうかも・・・・・・」
 プロデューサーのいうところは、世の中一般の常識として無理はなかった。
 高橋圭三があえてボンボン生ワクチンを飲む第一号となるのは少し冒険であろう。私は、生ワクチンが全く安全なものであること、特に中年の高橋圭三アナがこれを飲んでポリオにかかる心配は全くありえないと、懸命にプロデューサーに説得した。
 「それに、たとえ圭三さんがまだ自然免疫をもっていないとしても、どのみち三日後に一三〇〇万の一斉投与がおこなわれれば、圭三さんもその伝播感染は免れない。今危険なら、その方がもっと危険ですよ。たとえでいうなら、このボンボンを飲むより、ほこりの多い部屋の中でカツレツを食う方が、よっぼど危ないわけですよ」
 「そんなにいわれるのなら、本人といっしょに話してみましょうか」
 高橋圭三アナと打ち合わせ室で顔を合わした。
 「圭三さん、私たちはうちの一番の人気番組にポリオが取り上げられる日を長く夢みていたんですよ。母親は皆ポリオヘの恐怖と、それからまだなにがしか生ワクチンヘの不安をもっている。私は記者として、ボンボンに一〇〇%の自信をもっているのですが、あなたがテレビの中で、つまり全国の母親の見ている前で、にっこり笑ってボンボンを飲んでくれれば、三日後に始まる一斉投与を成功させるのにどんなに効果があるか。私はこの生ワクチンによって、世界で初めて日本からポリオをなくすことができると確信をしているのです。高橋さん、お願いします」
 野暮かもしれぬとは思ったが、キャンペーンの願いをこめてぶつ方も必死であった。隣りで尾村公衆衛生局長も高橋アナの顔へ大きくうなずいてみせる。
 「へいへい。ええ飲みましょうよ。私は商売熱心ですから。おっしゃるようにやりましょう。そこんところ、うんといきますよ。ちょっと待って下さい」
 彼はややおどけて腰をかがめながら、鉛筆をとってていねいにメモをとった。さすがに大スターの根性は立派だった。
 
 ところがだ。第二の問題が生じた。肝腎の厚生省が、生ワクチンをこの番組に出すことが工合が悪いといってきた。
 「今、国費で緊急輸入したボンボンワクチンは、七月二十日から全国一斉投与することになっているので、その前に特別に誰かに飲ますのは役所の建前としてまずい。特に公衆の面前、テレビでそうした違反が明らかになることは大変都合が悪い」
 真赤になって私は卓を叩いた。厚生省の春日技官を電話に呼び出す。
 「春日さん! こういうのが小役人根性だ。われわれが今まで努力してきたことは何のためだ! 厚生大臣は、この大事の時に厚生省批判のニュースを書かせる気か。この一粒が、どんなに大きい意味をもっているか。怒るより情ないぞ。放送開始まで時間がない。三十分以内にNHKホール玄関前に生ワクを一粒、一つぶだ。届けてほしい」
 「全く何という話だ。よくわかった。いやあ面目ない」
 目黒の国立予研から、たった一粒のボンボンワクチンが大きい魔法瓶の中にドライアイスに囲まれて、ぎりぎりの時間NHKホールに届いた。放送数分前、全国から集められた日報の数字と魔法瓶を抱えて舞台に駆け込む。圭三アナは、ベテランらしく手でマイクをおさえる。
 「シーッ、回答者席に聞えますよ」
 向う側の回答者席で、藤原あきが、いたずらっぽく首を曲げた。スカンジナビア航空の機長は、十二、三回の質間で秘密≠見破られた。そこで尾村局長を招き入れた高橋圭三アナは、魔法瓶を机の下から取り出して、自分は立ち上がってそのふたをあける。
 「へえ、これがあの、生ワクチンですか。これが日本中からポリオをなくしてしまう?」
 尾村局長の方を見た。局長が大きく大きくうなずいた。圭三アナは指先でボンボンをカメラの大写しになるようにつまみあげる。
 「厚生省の局長さん、これ飲んでいいですか?」
 「ははあ、日本中の子供さんが飲まなくちゃいけない」 感心するポーズ。
 「そうですか。どれどれ、はあ、いやあ、これはうまい。うまい。本当にこれは飴玉ですね」
 圭三アナの軽妙なそして見事な演技だった。
 「名優だぞ!」
 舞台横のテレビを見ていたポリオチームの記者たちは、みんな息をのむようにして、涙もろく噴きあげる熱さを感じていた。
 この番組が終わってから二日後に一枚のハガキが届いた。
 『「私の秘密」 大変よい企画で生ワクチンに安心感を深めた方が多いと存じます。ご努力には心から感謝いたします。ただ、一人の母の気持としては、あの一粒を圭三さんに飲ますのはもったいないと思えてなりませんでした。圭三さんは大人で、もう小児マヒにはかからないのですから、その分だけ子供の分が減るでしょう。できれば会場にいた子供に飲ませてくれたならと思ったのですが』
 キャンペーンの効果を狙うには、やはりスター圭三が飲まなければいけないという言い分はある。しかしこのハガキの中に含まれている母親の切実な気持は、この番組の成功に自惚れていた記者の気持に、頭から水をかけるような反省を強いるものであった。
 
 名古屋の松坂屋デパートでは愛知県庁からの注文書を見て首をかしげていた。コーヒー用スプーンをバラで一万三千本という。官庁からの注文としては、およそ例のない品物と数量である。納品係りは、何かの間違いではないかと、衛生部の小久保技官に電話を入れた。
 「まちがいじゃない」 小久保技官のぶっきらぼうな声が返ってきた。
 「銀メッキや何かの高いものは困るんだ。さきが尖ったりギザギザのキズがついていてもまずいな。とにかく一週間の中に集めてくれないか」
 例の日速三〇〇メートル説で気を吐いた愛知県庁の七人の侍≠ヘ、愛知県の一斉投与を全国一の成績で成功させようと誓い合った。周到な投与計画を練ったが、何としても未曽有の数の子供たちに短期間に生ワクチンを飲ますことをどう効率的にすすめるかが最大の問題だった。知恵をしぼったひとつがコーヒースプーン一万三千本だったのだ。
 「・・・・・・こういうわけなんだ。あんたにも子供ある? わかってもらえるね。世界で初の、大事なことなんだ。ぜひたのむよ」
 技官は力をいれていった。
 さすがの松坂屋も、これだけの数量を直ちに集めることは難しかった。卸屋数軒に連絡してかき集めにかかったが、なお足りない分は仕入部の係員が手分けをして金物の小売店をまわって買い集めなければならなかった。ことがことだ。値段にこだわらずとにかく期日に数を間に合わせた。もうけどころではない。
 こんな情景はもちろん名古屋だけではなかった。
 この年の夏には全国で電気冷蔵庫が品不足になった。生ワクチンの貯蔵用に各県の衛生部や保健所が買い集めたからだという。
 医師や看護婦の即席講習会がにわかにおこなわれた。投与計画をたてることも各県衛生部の頭痛のタネであった。
 てんやわんやで、世界で初めての生ワクチン全国一斉投与の日を迎えることになったのである。 
 
 
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