16 一斉投与

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 七月二十一日(木)
 生ワクチン一斉投与の日。
 快晴。暑い。
 今日は、東京、大阪、京都、愛知、秋田、宮城、青森の六都府県でスタートを切る。東京では東知事、大阪では左藤知事が会場に現われて、子供をあやした。
 「おい、東京も大阪も、知事が会場に来たってさ」 ニュースのレベルはそこまであがっていた。
 青森県の下北半島で、遠い部落から馬車を連ねて会場に集まる人の姿が、ドラマの遠景のようにテレビの画面をかざる。
 せっかくのことだからスプーン作戦の愛知県の投与風景を報告しよう。スプーンの数からいって、第一日目は二会場。豊橋に小久保、吉本。一宮に松島、千種の各技官らが前日から陣頭指揮にのりこんでいた。
 会場の準傭、一斉投与と投与会場を知らせるビラ貼り、該当者名簿の整理をしているうちに朝になってしまった。豊橋市の会場の新川小学校では朝八時から赤い眼の小久保、吉本の両技官が看護婦と事務員に講習会を開いた。緊張しているせいか少しも眠くはなかった。まもなく列車便でボンボンが着いた。
 新川小学校の校庭には定刻の一時間も前から母親たちの行列が三〇〇メートルほどもつづいた。人口一〇万の豊橋市でこの風景は異常であった。近くの商店のエプロン姿の主婦や幼稚園の子供の手をひく母親の姿も多かった。みんなの見ている前で吉本技官がボンボンの箱をあけた。はじめてみる白い丸い玉のワクチン。興奮した表情で看護婦たちがのぞきこむ。
 一番前に並んでいたのは幼稚園二年保育のY彦君(四つ)。あんまりみんながみつめるので、ひどく緊張しながらアーンと口を開けた。看護婦がピンセットでそっとボンボンを口に入れる。まわりじゅうが一呼吸、ふくらんだY彦君の頬がほころんで、みんなもにっこり。
 「甘い?」
 「うん、甘い」
 ほっとした空気が会場に、長い列のうしろに流れた。
 幼児にはボンボンを薬方紙でつぶして飲ませた。乳児にはスプーンの中でボンボンを水に溶かして飲ませた。泣き叫ぶ赤ちゃん、一生懸命に飲ませようとする看護婦の真剣な表情に、つきそいの母親の口が大きく開いていた。
 もう一つちょうだい、と手を出す幼児がいた。看護婦の真剣な顔が、今度は大きく崩れた。会場の窓の下を、飲み終わった幼稚園の子供たちが「ナマワクチン、ナマワクチン」と合唱しながら帰って行った。新川小学校だけでも、この日一六〇〇人の乳幼児が生ワクチンを飲み、投与率は九六%に達した。大成功であった。
 この時間に日本中の母と子が、いっせいに、ポリオ撲滅のたたかいに参加している! 全国一〇〇〇会場に、同時につくられている五五万七〇〇〇人の長い行列。この国にかつてなかった伝染病への全国民参加のたたかいのファンファーレ。見えない敵よ、騒るなかれ!
 ひどく暑い一日だった。
 一日中、日本中が興奮しているような日であった。
 
 私も一目だけ投与風景をこの目で見たかった。一斉投与第一日目の各地の報告をまとめるデスクの仕事の合間をぬすんで、やっとおそい夕方、NHKから一番近い投与会場の日本橋保健所へかけつけてみる。どこにもある保健所のひとつだ。道路に面した講堂の入口に大きく
 『生ポリオワクチン接種者入口』
と書いた白い紙が貼られている。すでに投与は終わって鎧戸がおりていた。立ち去ってしまうのが惜しく、横口から入ってみる。建物の中は意外に暗く、真夏の暑気がむっとこもっているような空気だった。「投与室」 「出口」 「順路」などという貼り紙が、至るところの扉や壁にさがったまま。興奮が通りすぎたあとの余燼が感じられる。
 保健婦室で、電気もつけない薄闇の中に、四人の保健婦がぺったりと椅子に腰を下ろしていた。お互いの顔はほとんどさだかに見えない。はげしい一日であった。投与が終わって、あと片付けをしたあと、この部屋に腰を落ちつけて、もう一時間、四人とも立とうとしないのだった。
 「こんなに一日が短かかったことってあったかな。おなかがどうかなっちゃった感じ」
 「おかあさんたちの顔、本当にせっぱつまってたわよ。今受けさせなければっていう気持ね」
 「あのほら、おとうさんとおかあさんが一人ずつ子供を連れてね。ひとりおぶって。ああいう予防注射見たことない。すごく真剣。思いつめた表情っていうのかな」
 「今どうしても飲ませなきゃあ、という顔で、生ワクチンの不安なんて全然なかったわね」
 「保健所がいつもこうならな。もっともこれじゃあ、たまらないけど・・・・・・」
 「今までね。ポリオのおかげで、ほかの仕事みんなストップだったでしょう。私ちょっと抵抗があったな。でもね、今日みたいに仕事甲斐感じたことないわ。私たちの仕事って、こういうものじゃないのかな」
 「この保健所、直通電話がこの保健室にあるでしょう。ポリオの問い合わせってば、みんなここでしょう。私たちじゃどうする方法もないのに、こりゃ無理よね。やりきれなかったな。やっと生ワクが来た。これを子供の口へ入れてやれた。あたし今日の忙しさの最中にね、それ思ったな。今日は今までの分をまとめて、ほっとした感じ」
 みんながそれにうなずいた。とても素直な共鳴だった。
 「こんな日は、帰るのが惜しいじゃない?」
 私も仲間に入って素直にうなずいた。
 轟々たる歴史のひびきの中に自分たちがいる。その参加の中から立ち去れないような気持だった。その一日は、そうして暮れた。
 
 生ワクチン投与は圧倒的に順調に進んで行った。
 何とか足を引っ張るような事故が起こらなければよい。
 祈るような毎日が続く。
 二日目の正午すぎ、豊島区千早町の投与会場で七つの男の子が、生ワクチンを飲んだとたんに人事不省になったという。救急車がとぶ。無線情報で入った連絡では、生ワクチンの副作用だと立ち合いの医者がいったという。そんなはずはないと私はまず自分にいいきかせる。生ワクチンが本来のウイルスの力を発揮したのなら、少なくとも二、三週間の潜伏期間がある。飲んだとたんに発病などという馬鹿なことはないとわかっていても、偶然が重なって説明のできない事故になることが恐ろしい。ポリオチームの石井記者が現場にとぶ。結果がわかるまで二時間。待ちかねた電話が入った。
 「氷水の飲みすぎでした。もう直ってぴんぴんしています。よかった、よかった。ハハ・・・・・・」
 今日の朝日新聞の横山泰三の社会戯評は、池田首相がぐんぐんと太って大きくなりすぎた経済成長≠ニいう坊やのロヘ、背伸びをしてボンボンを飲ませようとしている絵。註にいわく、
 「国際収支の悪化を防ぐ
    今のうちに生ワクチンを」
 そういえば、半年前、誰もその名を知らなかったポリオも、生ワクチンという言葉も、すでに流行語の一つであった。すっかり名を売ったといえば、もう一つゴキブリがある。ポリオウィルスの運び屋として憎っくき奴。大いにけん伝された。新聞の連載漫画に「ゴキブリ野郎」が登場。ゴキブリを退治する殺虫剤のコマーシャルはテレビを主役でまかり通る。ゴキブリなんて別に新しい虫ではない。なんだ油虫じゃあないかというのに、いやいやゴキブリとは、もと室町時代に食事の御器にかぶりつくところからその名がつけられたものにして・・・・・・というゴキブリ物語が連載読物にさえなった。ポリオと生ワクとゴキブリの世相であった。
 保健所の前に並ぶ長い列をめざして、飴やぴいぴい笛など、子供のおもちゃやアイスクリーム屋まで、ちょっと昼間の縁日のように屋台が並んでいる。大道商人が見逃さないほどの今や大きい社会現象であった。この行列で一つの特徴は、どんなに暑くても、アイスクリームだけは全く売れないことだった。生ワクチンを飲む時に、腸の中で異変があってはという母親たちの警戒からだ。もう一つの奇現象は、生ワクチン投与のあった町内では、女湯がガラあきになることだ。東京の水道の使用量は水道局開設いらいの新記録を作るという暑さなのだ。生ワクチンを飲んだ日は風呂に入らぬ方がよい、という注意書がこんなに行き届いていて、子供とともに母親たちまで風呂にこないからだ。
 「君の名は≠「らいですよ」と風呂屋は苦笑した。
 社会党は七月二十五日の中央執行委員会で、ポリオは子供だけでなく大人もかかるからとして、生ワクチンを全国民に無料で投与するようにという主張を決め、灘尾厚生大臣に申し入れた。いろいろな団体からの協力も目立つようになる。ポリオチームにも農村工芸作家協会という、つまり、こけしの民芸家協会が四〇〇個のこけしを送ってきた。駅や温泉場で売っているしろ物とはまるで違う。本格派の美術品だ。ポリオ患者の収容されている駒込病院にこけしを届ける。
 暗い話もある。熊本県人吉市の前衛生課長、西重義さん(五十一歳)が自宅の薪小屋で首吊り自殺したという。連日のポリオ対策に追われてノイローゼになり入院、その後自宅療養中のところであった。
 「市民に申しわけない」
というのが口ぐせであったという。球磨川の上流の小さな町でつづけられた悪戦苦闘の末の犠牲者であった。
 
 生ワクチン投与は水害の北海道を除いては、きわめて順調に進行した。日本中のすみずみまで、隅なく同じように生ワクチンが届けられた。
 「この薬は東京の人といっしょに飲めるのか」
と感激された無医村の話もある。
 結果的には九一・○%という常識では考えられない驚異的な数字をあげたこの生ワクチン投与は、それだけでも世界に自慢のできる成果であった。驚いてほしい。種痘を一〇%以上も上回る成績なのだ。投与の子供の数が一三〇〇万人、親がついてきたことを考えれば二〇〇〇万人を越えるこの大行動は、保健所や各県衛生部でも全く正確な把握ができなかった。保健所や投与会場の能力をはるかに越える作業であったから、この年の秋には、そのための手抜きで日本脳炎が例年より多かった、というほどの批判をあとに残した。投与会場では印鑑を持って行って名前をいえばいいという非常措置までとられたし、どこでもその日のワクチンの残高で投与量を確認する方法しかなかった。もっともこの生ワクチン投与のおかげで、逆に全く数字が正確になったところがある。
 大阪釜ケ崎。人も知るようにこの一角では住民登録など無用のもので、住民の数は全くつかむすべはない。当然釜ケ崎にもワクチンが届いた。ポリオの恐怖と関心だけは、釜ケ崎でも同じだった。ここでは帳簿のいらないのが幸いして、手当たり次第甘いボンボンを飲ませて回った。子供同士は顔なじみだから、日頃の遊び仲間で来ていない子があれば、すぐわかる。いくら探してもこれ以上子供がいないのが確認されたところで、釜ケ崎の子供の数がはじき出された。これがこのスラム街での最初の子供の人口調査であった。あとになって釜ケ崎暴動事件が起きたとき、その調査に出かけた総評調査団が、どの子供も生ワクチンだけは必ず飲んでいるのを知って感心したという話がある。
 ポリオチーム調査で、生ワクチンを飲んだ数が五〇〇万を越した(五二六万三〇〇〇)七月三十一日夜、生ワク協議会の海外調査団が羽田に帰った。調査団の方は国内からの反響を気にしてわざわざサンフランシスコで合同会議を開き、統一見解を調整してから帰国したのだが、何分にも生ワクチンの一斉投与が半分近く進んでいる段階では、迎える方の関心は薄かった。特に、その日は揉みに揉んだ医療費問題が解決した日で、各社の記者は完全にソッポ。空港に出迎えた記者はわずか二人。空港特別室で淋しい記者会見。
 柳沢団長が答える。
 「モスクワからの連絡では、生ワクチンに自信を持たれたということですが?」
 「ソビエトの生ワクチンに不安は全くないと思います」
 「ごらんになった製造施設や投与データについて、もう少し詳しくお話し下さい」
 「まず製造検定設備が立派なものです。データとしては七四〇〇万人が生ワクチンを飲んだ結果を見せてもらいました。生ワクチンを飲んで害をえた人は一人もないことを確認しました」
 「生ワクチンについて調査団の統一見解は出ていますか」
 「出ています」
 「それは生ワクチンヘの全面切り換えということでしょうか」
 「その方向です」
 「政府への報告はいつ頃になりますか」
 「あさって生ワク協議会に報告して、その結論を得てから二、三日中に政府に報告をおこないます」
 五〇〇万人分のボンボン生ワクチンがもう予供たちの腸に入った今、学界の承認印がようやく捺されることになったわけであった。ニュースはそれを手短かに伝えた。もはや特ダネともいえなかった。
 
 一三〇〇万の生ワクチン一斉投与の効果は、五〇〇万にして早くも現われはじめた。さしものポリオの流行も、ようやく峠を越す兆しを見せていた。生ワクチンの安全さも事実をもって証明されつつあった。
  ポリオの発生数は
    七月第一週 (六月二五日〜七月一日)  一四五人
      第二週 (七月二日〜八日)        一一一人
      第三週 (七月九日〜十五日)      一六七人
      第四週 (七月十六日〜ニニ日)     一六八人
      第五週 (七月二三日〜二九日)     一三一人
    八月第一週 (七月三十日〜八月五日)  一一五人
      第二週 (八月六日〜十三日)      一〇四人
と七月第五週から衰兆を見せていたのである。
 あとは八○○万人分をできるだけ早く、できるだけ多くの子供に飲ませることであった。それと同時に、これだけ大量の生ワクチン投与の進行につれて、心配しなければならないことも出てきた。特にこの期間中にたまたま生ワクチンを飲んだ子供に重なりあって、原因不明の病気や死亡が発生することであった。そんな誤解によって、一斉投与が中途半端で終わってしまっては一大事である。
 統計の上では日本中の十歳以下の子供の三週間内の死亡数のうち、原因不明で死ぬ子供はだいたい数名はいることになる。
 朝元気で遊んでいた子供が、夜急に死んでしまう。どんなに調べても原因がわからない。ポックリ病≠ニいう。
 たまたま生ワクチンを飲んだあと、こうしたポックリ病≠フ死亡例が重なったら、世論はこれを生ワクチンと無関係とは考えない。夏の盛りのことではあるし、生ワクチンを飲んだ時期にちょうど熱を出したり、下痢をする子供も少なくないだろう。当然のこととして、投与前に身体を大事にしておくように、口をすっぱくして呼びかけることが必要だ。厚生省から全国の医者に配られた投与要領は春日技官が書いた。
 その中にいわく、
 「生ワクチンを注射してはならない」
 まるで子供にいうような注意であった。
 川喜田教授が「医者のうち一〇人に一人はソークと生(なま)の区別も知らぬ」と朝日新聞紙上で堂々と嘆じたのはこの時である。
 「風邪や下痢の子供はもちろん、虫歯を抜いたり、他の予防注射をしたあとはいけない。投与後は風呂へは入らぬ方がよい」とも書かれた。
 それは町医者の無知への警戒だけではなかった。万一の事故の重複が起きて、生ワク投与の挫折を招かないための配慮であった。
 実際の事故がこわいばかりではない。他人の火事に手を叩く弥次馬根性も危険であった。
 まもなく
 『生ワク飲んで死ぬ』
 『生ワク飲んだ直後に死ぬ』
などという新聞記事が目につきはじめた。記事の指摘は四件だつたが、実は保健所の調査網にひっかかった疑わしい例は岡山、新潟、神奈川、大阪、長野、宮崎の六例に達した。
 春日技官の意見は、六例の大部分は一見して無視できるものだという。しかし放置されることは許されない。私はこの段階で正確な事態の報告がなされるべきだと主張した。
 八月五日、精密な調査がおこなわれた。
 生ワクチンを飲んだために死んだと報告された六人のうち三人は、解剖の結果、腸腺炎、疫痢、子守りの留守中の窒息死が、それぞれの原因であることがわかった。解剖できなかった三人については、一人は明らかに結核によるもの、一人は未熟児で全くの衰弱死、一人だけはポリオによる死亡と考えられる。しかし、このポリオによる死亡例も、潜伏期間から算定すれば、生ワクチンによる発病ではなく、それ以前に野生のポリオウィルスにおかされたあと、たまたま生ワクチンを飲んだものと判定された。胸を撫でおろす結果であった。このニュースをでっかくぶつけたあとは、新聞紙上での疑わしげな記事はぴたりと影を見せなくなった。世論に不安はない。
 投与は順調に足を年めた。一三〇〇万完了は目前であった。
 
 生ワクチンそのものについての話題も少なくなかった。ソビエトボンボンは大変に姿も形もおまけに数まで不揃いだった。これはまず七月二十一日、宇都宮市で問題になった。ここでは一〇〇粒詰めの箱の中に九〇粒しか入っていないものが二箱も見つかった。栃木県衛生部で調べてみると、真岡市でも数が足りない箱がかなりあることがわかった。県衛生部の話では包装が十分でなかったため、一六〇箱入りのダンボールの中に、ボンボンのこぼれているものもあったということだったが、その日はたいして大きい問題にはならなかった。ところがこのあと各地から同じような情報が相次いだ。
 まず大阪府の守口保健所が七箱について調べたところ、最高九五、最低八九、平均九二粒で一〇〇粒入りはひとつもなかった。大阪府で連絡したところ、大阪府内豊中市北河内郡角間町で不足の箱がかなり見つかり、その一方、一〇〇粒以上入っている箱もわずかながら発見された。
 ボンボンの箱には「六月八日」という意味の製造月日を表わすと考えられる数字が書かれているだけで、レッテルなど何も貼っていない殺風景なもの。蓋の糊付けをしただけで、封をするシールもない。
 今度は隣りの京都府がいっせい検査をしたところ、最低七四、最高一〇五粒とまちまちで、全体で四四〇〇粒不足していることがわかった。どこの県でも封を切って変質してはいけないというのですぐ冷蔵庫へ入れてしまったため、投与をはじめることになってから不足に気づくことになるのだが、いちいち箱の中の数を調べてから飲ますわけではない。日本の薬ではそんな経験がない上に、だいいち戦争のように忙しい中で、そんた暇があるはずがない。投与を終わった後で
 「どうも人数のわりに箱数が多く要ったなあ」
と感じて詳しく調べ直した結果、一箱の粒の数が少なかったことがわかったのだ。箱ごとの目方が足りなかったので、不足がわかったりした。
 数が足りないだけではない。粒の大きさが非常にまちまちだ。平均は一・一センチということになっているが、大小の差は五割ほどの違いがあった。大きすぎては大丈夫かという不安があるし、小さすぎると効き目があるのかと心配になる。こうなると箱にレッテルがなかったりすることが、いかにも医薬品として権威がないように思えてくる。
 苦情は各地からあがった。厚生省の細菌製剤課は苦笑した。
 「いやあ、大らかなもんですよ。大割引きして安売りする日本の薬品のきらびやかさや神経質さに慣れすぎている方が間違いかもしれませんなあ」
 全国的に調べてみると、不足は四%とわかった。
 そこでよく考えてみれば、ソビエトからは初めから四三万人分、つまり四・三%のおまけがついてきていた。こちらはそれを、運搬中の破損かサービスの分と解釈していたが、ちゃんとそれだけを見込んだ不足分だったことがわかった。重さでこいというわけか。
 「だから数の不足も補えますし、粒の大小も効果には無関係ですから、問題はないわけです。日本人の感覚には適わないが、結論的には何も御心配なくということです。国ぶりとかスケールが違うんですね」
 一方、三〇〇万人分のカナダの生ワクチンは危ないという噂が七月下旬にかなり流された。七月二十一日にはマヒ協の代表が厚生省に押しかけ、ソビエトのワクチン一本にせよ、と申し入れた。そもそもことの起こりは、カナダから三〇〇万人のシロップワクチンの輸入が決まった直後、カナダのモンピース保健相が、
 「生ワクチンがよいことはわかっているし、実験成績もよいが、カナダではまだ生ワクチンを医薬品として使用することを許可していない」と述べたというニュースがAP電で伝えられたことから始まるようだ。厚生省は頭から強気に出た。
 「だいたいAP電の伝える点がよくわからない。カナダのワクチンはソビエトに比べて、さらに詳細な検定内容を示してくるのだ。信用がおけるし、厚生省としても安全性を確認したものでなければ使うはずがない」
と自信を示したが、カナダ嫌いはさらにひろまった。カナダシロップは、ボンボンワクチンを飲むことができない二歳以下の乳幼児に投与することになっていただけに、不安はよけい強かったのかもしれない。その後もカナダワクチンの実験で、予研の猿が三匹死んだという話がひろまった。厚生省は最後までこれに強気で反論した。今回は生ワク協議会の海外調査団の見解が支えとなった。
 「学界の見解として、カナダシロップは不安がないと断言いたします」
 学問上の見解はともかく、厚生省のいい方には、やっと御墨付きを手にした勝ち誇りというような感じがないでもなかった。
 七月第四週をピークとして、それ以後一週間ごとに一三一人、一一五人、一〇四人と僅かながら減少の傾向を見せたポリオの週間発生数は、八月第三週に入って一挙に五二人と減少した。これはすでに五月中旬の線までに落着いたことを示している。驚くべき数字であった。このような激減の一途をたどりながら、患者の数が二〇〇〇人を越えたのは八月五日。一〇〇〇人突破いらい五十三日目だが、その意味は全く逆の方向を示していた。一〇〇〇人の声を聞いた時は患者激増の道標であったが、二〇〇〇人の時は激減の兆しと受けとれた。特にこれを地域的に見ると、患者の発生状況は明らかな変貌を見せていた。依然としてカーブが下向きにならない地域は関東地方。また、高知県では二十三歳の青年が呼吸マヒで死亡した例もあって、高知市で成人一〇〇人に特例として生ワクチンを飲ます処置がとられたりもした。しかし今夏最高の流行地九州では、七月下旬から目立って発生数が減っていた。全国トップをきっていた熊本県は、八月一日以降カーブを落とし、福岡県を下廻った。そして遂に八月三日、最大の流行地熊本、福岡両県に一人の患者の発生をも見ない日を実現した。
 この最初の記録はすぐに翌日再びポリオの反攻に潰されることにはなったが、それ以後両県に患者の発生の全くない日は八月十日、十一日、十六日、十八日、十九日と日を追って多くなり、特に十八、十九の両日は熊本、福岡だけではなく、全九州六県に一人のポリオの発生も許さなかった。これは実に四月二十四日、五月六日いらいの記録であった。また全国的に見ても十八日は福島、静岡、栃木、高知の四人のみ、十九日は青森、東京、神奈川を合わせて四人に止まった。
 これも四月二十六日いらいの記録であった。
   一日だけの患老の発生数の多かった日をとってみると
   四〇人(七月十八日)
   三九人(六月三十日)
   三八人(七月十日)
   三六人(七月十三日)
   三五人(七月六日)
   三四人(七月二十五日)
   三二人(七月十四日)
   三一人(七月十九日)
というわけで、こう見てくれば、その激減ぶりも明らかであろう。
 八月十日以降は、全国での発生数が一五人を越えることがなかった。七月まで昨年のカーブとほとんど平行して上を向いて走っていた今年の患者発生カーブは、この頃からハッキリと角度を緩め、ぶっ倒れたように横に寝た。週間発生数のグラフでは、八月に入って右肩がストンと大きく落ちるあざやかさであった。過去の統計で、八月中にポリオの発生数が下降線をたどった例は全くなかった。それは明らかに問答無用の生ワクチンの勝利であつた。
 もちろん目立たないことではあったが、ソークワクチンがその基礎に果した効果も無視はできなかった。熊本の場合でも、たとえ二回でも注射した幼児の発病率は、注射しなかった者の七分の一に止まる。北海道では、注射した者のうちからは一人の発病もなかった。
 のちに平山博士の調査では
 「この夏の北海道での疫学調査によれば、ソークワクチンで免疫を得た子供たちの腸内に多量のポリオウイルスがあることがわかった。今年もポリオウイルスの相当の蔓延があったわけで、もしソークの努力がなかったら大変なことになったはず。去年なみどころではなかったろう」と指摘した。
 結果からいえば、ソークと生(なま)は手を組んでポリオを叩きのめしたわけだ。このあとのポリオの流行が昨年なみにつづいたとしても、統計的には、少なくともさらに三〇〇〇人の幼児がこの三十六年の夏、ポリオにかからずに済んだことになる。
 八月十七日号ポリオ週報の見出しは黒々と書かれた。
 『本日ポリオの発生なし。ウイルス敗れたり』
 
 一九六一年(昭和三十六)八月十九日、国立予研大会議室では大会議が開かれていた。
 生ワクチン海外調査団の報告に基づく伝染病予防調査会と生ワク協議会の合同会議だった。いよいよこの会議で今後のポリオ対策の基本方針が打ち出される。生ワクチンの採用が本決まりになるのは明らかだった。ポリオの根絶をめざして、来春さらに一七〇〇万人分生ワクチンの投与の政府答申も決めるはずであった。今年のドラマチックなポリオとの闘いの勝利は、来年以降の地味な闘いの継続によって、やがてこの国からの完全なポリオ根絶に結びつけられなければならなかった。たまたまひと夏の勝利だけで終わらせてしまってはならない。
 三十六年は一三〇〇万人、来年はさらに一七〇〇万人の生ワクチンを投ずること。根絶の立場としては、こうした努力がこれから数年間こつこつと続けられていかねばならぬ。会議はそのことを議論しているはずであった。
 長い会議が終わった。窓の中で学者たちが立上がるのが見える。広い予研の庭の定位置≠ナ腕を組んで待っていた私は、今日こそ二年間積み上げてきたほんとうの特ダネを書くために会議場に足を踏み入れた。今日は裏からネタをとる必要がないのだ。もうネタは逃げない。伝染病予防調査会会長の小島三郎博士と、生ワク協議会幹事長の柳沢謙博士に真っ向からマイクを向ける。
 さあ、学界の権威をかけた立派な結論をうけたまわろう。
 「わが国では今後、生ワクチンによってポリオの絶滅に進むべきだと確信いたします。われわれはこのことを政府に答申いたします」
 これでいい。これでいい。小島会長も柳沢博士もはっきりとそういった。生ワクでポリオの絶滅に進む、と学界が決意した。やせた小島博士の肩にほんとうの力が人っていた。私はこみあげる喜びをじっくりとかみしめながら、デスクヘ車を急がせた。それはテレビの「小児マヒ情報」の最後の日となるべき記事でもあった。近藤宏ニテレビドクターが静かに手を出した。
 「医者として私もジャーナリストになりました。張りのある仕事ができた気持を一言いいたかったのです」
 朝日新聞が書いた。
 『「峠を越した小児マヒ」は予防医療の勝利を物語る。四月からNHK小児マヒキャンペーンも「小児マヒ情報」(三十日NHK・TV)の完了とともに目的を果たし終えた。あらためてNHKの努力をたたえたい』(昭和三十六年九月五日)
 朝日君ありがとう。フェアーな讃辞だ。日頃君たちとはげしくせり合っている記者の気持で、勝たせてもらったと素直に喜ばせてもらうよ。この記事の切り抜きを、私はながく大切に残すとしよう。
 
 
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