17 鎮静

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 九月の半ば、今は厚生大臣となった古井喜実氏は、当時の関係者を東京平河町の都市センターの地下食堂に招いた。
 「小児マヒの鎮静を祝う集い」
 古井氏自身は、池田首相がアメリカから帰国してすぐの七月改造で、生ワクチンの一斉投与の二日前、十九日厚生大臣を辞めた。それからニカ月ぶりのことであった。
 集まったのは当時の安藤政務次官、尾村公衆衛生局長、牛丸薬務局長、柳沢謙博士ら一三人。ただビールとつまみだけの簡素な会合だった。
 自費でこの祝賀会を催した古井氏には、どうしてもそうしたいという素直な気持があったのだ。当時「責任をとるとはどういうことか」と聞かれると、「仮定のことはいいじゃないか」と答えた人だが、今はこういう。
 「しくじるかもしれんとは思いましたね。生ワクチンによる犠牲者が出ないという保証はない。医者でない私がやることですから、一人でも出たら大臣を辞めようと思いました。たくさん出たら政治家をやめねばならんと思っていましたな。うん。学者が慎重なのは当り前です。まあ私のは乱暴でまぐれ当たりですよ。しかし政治はあの事態を放っておくことはできんかったのです。生意気なことをいうようだが、もしあの時の厚生大臣が私より慎重派の人間ならやらなかったですな」
 「古井さんは学界が最後まで反対してもやりましたか」と質問が出た。
 「いやあ、やめたですね」
 「そのへんはどんな見通しでした」
 「抵抗しきらんと思つてました。反対しきる自信はなかったでしょう」
 「協議会から、ノーと出なかったことはよかったですね」
 「よかったです。しかし私は今でも、協議会が心から賛成したとは思っていませんな」
 古武士のような風貌をしたこの人は、
 「こういう話がでけるようにたったのは、よかったです、よかったです」とからからと笑った。
 
 生ワクチンの発明者、アメリカのアルバート・セービン博士は、九月十七日羽田空港に降り立った。
 鋭い目に、尖って突き出た鼻、顎がすとんと落ちたいかにも精桿な顔。二十年間生ワクチン一本に打ち込んできたこの著名な学者が、台風明けの青く澄んだ秋空の羽田空港に降り立った時の情景は、まさに、待ちかねた千両役者が絢爛(編注:けんらん)たる大詰めの舞台に颯爽と登場した趣きがあった。
 ドクター・セービンといえば、生ワクチンの生みの親としてノーベル賞の有力侯補で、セービンの住むシンシナチィでは、テレビが博士の動静について毎日市民に報告しているほどの名士。ところが、気むずかしさでも世界一流だ。
 初めNHKが招待状を送ったが、
 「私は学者であって芸人ではない。放送局の招きで出かけることはできない」
という返事。今度は厚生省の尾村公衆衛生局長が手紙を出したが
 「局長個人ではだめだ」
ということ。結局日本学術会議の和達清夫会長と吉田富三東大教授からそれぞれ電報を打ち、東大講堂で学術講演をお願いするということでようやく腰を上げた。
 ところが台風でまた飛行機が遅れた。気が変わって途中で帰ってしまうことはないかと心配していた出迎えの人々の前に、にこにこしたセービンの顔が現われた時、一同がその日の秋の空よりももっと晴ればれとした表清で顔を見冶わせたのも、無理のないことであった。
 セービン博士はその翌日、東京サンケイホールで「小児マヒ絶滅への歩み」と題して講演したのを振り出しに、十月四日までの十八日間、北海道から九州まで精力的に講演旅行を続けたが、セービン博士は、日本の学界が長い間生ワクチン問題に混迷を続けていたことをまるで尻目にかけるように、きっぱりと生ワクチンによるポリオの根絶の必然性を強調し、世界で初めての日本の一斉投与の成功を賞讃した。
 各地の講演会は未曽有の盛況で、最近これ程関心を集めた医学者の訪日はなかった。
 台風と共に日本にやってきたセービン博士は、台風のように日本をかけ抜けたが、その旅行ぶりもまことに天衣無縫、自己の信ずる合理主義に則って意志的に行動するので「これくらいスケジュールを変える旅行者は初めてだ」と交通公社を嘆かせた。
 関西を訪れた時、ぜひ奈良へ行きたいという。奈良へ行くと食事の時間がなくなるというと、
 「諸君は食べる話ばかりする。客をもてなすのは食べさすことだけではない。私は五十年間食べてきたから一回くらい食べなくても平気だ」
と怒る。特にセービンは、食事の時間を中心にスケジュールを組む日本の習慣がひどくしゃくにさわったらしい。各地で催された学者との討論会などで、話の前にお茶を出したりするのが気にいらない。たまたま神戸大学へ出かけた際、スケジュールの都合で朝八時すぎに着いてしまった。門を開けるのも早々に迎え入れたが、お茶を出す準備がない。致し方なく早速討論を始めたのだが、これがたいへん嬉しかった。
 「おー、神戸大学の態度はまことに学究的である」
福岡に着いた日は非常に署かった。午前中暇があったので、セービンは海へ入って泳ぐという。疲れてはいけないと思って、
 「もう二日で十月だし、日本では十月に海で泳ぐ者はない」
というと、これが博士の合理主義に全くなじまない。
 「十月に泳いでいけないということはない。暑ければ泳ぐ、寒ければやめる。それが当たり前だ。諸君はおかしい」
と猛烈な口早で怒り出す。
 「いやいや、実は今いい忘れたが、日本の十月の海にはくらげが多い。これは大変危険であるので、人は暑くても泳ぐのを我慢する。従って今海辺にはシャワーの設備もないのである」と説明し直すと、博士はやっと納得する。
 「然り。暑さを紛らわすのに、海のみが適切な手段だと主張することは正しい態度ではない」
 セービン博士が日本を去る日は、また台風の雨の日だった。空港で案内をしてくれた人たちに旅行の礼は一言もいわなかったが、
 「こんなに素晴らしい生ワクチン投与を成功させたことは世界の記録である。私の確信では、ポリオはまもなく日本からなくなるだろう。それが日本を見た私の証言だ」と強くいった。
 タラップでセービンがにこにこと手を振るのを見ながら、この十八日間講演会の通訳をして歩いた東大の松本稔教授は、セービンよりもっと強い声で、しかももっと低くゆっくりとつぶやいた。
 「これでもう日本では、ソークか生かという論争だけはなくなったんだ」
 ジェットエンジンは、翼の激しい雨滴を振り払うように大きく響き始めていた。
 
 
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