五部 根絶
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     20 追いうち
 
 ニセ千円札が三十枚をこえた。
 のこった三人の記者のうち神戸記者はニセ札担当に切りかえられた。彼は「WR789012T」 「GV456123R」というニセ札の番号の整理台帳を作るのに忙しくなった。石井記者もポリオに専念できず、ポリオを追うのは田畑記者ひとりになった。
 ポリオの世論はどんどん冷えていく。田畑はあせった。これでポリオは終わったものと受けとられ、生ワクチンが忘れられ、何年か後に流行がおきれば、去年の成功が無駄になる。
 あのたたかいに参加した多くの学者たちも去年の秋いらい、それぞれの専門分野にかえっていた。ミスターポリオ平山博士だけが頼りであった。
 「今年からは春が大事です。去年はああいう緊急事態ですから、一斉投与は真夏になりました。しかし夏は腸の中で他のウイルスもいっぱい繁殖している時期で、せっかく生ワクチンを飲んでも、他のウイルスが邪魔をして生ワクチンを思うように働かせないことがありえます。夏の前に生ワクチンを飲んでおくことがぜひとも必要です」
 「そのとおりです。それをつづけることが、ポリオ根絶への道です」
 この話を口うつしにして熱弁をふるう田畑記者を囲んで、神戸も石井も外信部に移っている杉林も協力してチエをしぼった。
 「デスクの家を夜討ちしょう。まずおれが行く」
 一番年長の神戸記者が出かけた。じっくり話すには深夜がいい。寝しずまったころMデスクの家の戸を叩いた。
 「だれだ?」
 「ゴードです」
 神戸はゴードとよむ。デスクの男の子が父親の膝をおさえた。
 「お父さん、強盗だよ」
 笑えない話であった。二次キャンペーンははじまらなかった。
 
 三月二十二日はNHKの放送記念日。阿部真之助会長は、恒例の何百人かの表彰式をおこなった。会長自身もこのとき感謝状を一枚うけとった。厚生大臣からポリオのたたかいについてのものであった。
 みずからジャーナリストである阿部真之助会長は、このときポリオ問題の今後について直感するところがあった。
 「去年あれだけ騒いで一三〇〇万人分の生ワクチンの投与をしたのに、まだ今年も一七〇〇万人分の投与をつづけることになっているのはどういう意味だ?」
 「それをまたさっぱり騒がないのはどうしたわけだ?」
 思いたつと、この老記者はすぐ受話器をにぎる。数少ないことだが、阿部真之助氏が故人になってからこの種の秘話がいくつか明らかになった。NHKという巨大な機構をこえて阿部会長は、知らん顔で直接何人かに電話をしたことがあったのだ。
 私も直接会長からの電話をうけてびっくりした。
 「ふーん、つまり簡単にいえばNHKが本当にほめられるためにはだ、まだ二、三年呼びかけをせにゃならんということだな?」
 老記者は鋭い感覚の持ち主だ。
 「根絶か。そりゃ、うん、豪気だな。ハッハッハッ・・・・・・」
 たちまちにして大号令がくだった。
 感謝状は意外な効果となった。
 巨象は再び歩き出した。田畑記者らはこれを「追いうちキャンペーン」と名づけた。テレビのブラウン管には、再びポリオの文字が出ない日はなかった。「あと一息で小児マヒをなくせます。まだ生ワクチンを飲んでいない子供には、早く飲ませましょう。」 番組と番組の間にスポットで入るこのよびかけを、みんなはNHKのコマーシャル≠ニ呼んだ。地味ではあったが多くの番組がこれに参加した。「時の動き」は、担当の青木プロデューサーは替わっていたが、やはりキャンペーンの主役をうけもった。近藤宏二テレビドクターも、再び生ワクチンの服用の呼びかけに登場した。
 
 麹町保健所で二回目の投与が始まった日は、朝から雨だった。その数日前の四月二十五日、アメリカは太平洋のクリスマス島で大気圏内核実験を再開した。人々は、ジュネーブの軍縮委員会にかけた一すじの希望がたち切られたことに失望した。それより何より、死の灰が日本に降ってくることをおそれた。
 三人の記者は死の灰の雨の恐怖で、生ワク投与場への出足がにぶることをおそれた。
 正午近くになっても、雨はやまなかった。
 「チェッ、有楽町に雨が降るーか。」 シャレにもならない冗談をつぶやきながら田畑記者は、そごうデパートの角を曲がって、アッと思った。保健所の入口から都庁の裏にかけて、二、三百人の母親が行列をつくっているではないか!
 「一回目はこなかったのですが、テレビを見てこれは大変だと思ってやって来たんですよ。」 片腕に赤ん坊を抱ぎ、片手でコウモリをさした母親が、オカッパ頭の女の子を連れた母親と話し合っていた。テレビで来たとは、これはうれしい。
 母親たちはまた、巨大な動きを開始した。
 今回のキャンペーンはただ必要を説けばよかったのだ。
 ワクチンの不足を心配する厚生省は、「去年ソークワクチンを三回注射して、生ワクチンを一回飲んだものは、今年は、服用しなくてもよい」という通達を出した。苦しまぎれであった。しかし母親たちの要望は、そんな通達に目もくれずに保健所におしかけた。
 東京都では、六月にもう一回追加投与をすることを決め、宮城、神奈川、埼玉など十三の都県が、期間をのばしたり、追加投与をした。
 全国各地でも生ワクチンの服用率が日増しに上昇していった。
 この年に、日本中で、のべ二三三七万七〇〇〇人の子供が生ワクチンを飲んだ。
 接種率は、九三・○%と厚生省がびっくりする数字になった。
 
 大牟田の太陽は、ジリジリとこげつくように暑かった。平山博士はこの炭住街を訪ねた。
 生ワクチンの一斉投与の継続に合わせて、各地の免疫の行き渡り方や、たとえ激減したとしても、なお発生するポリオ患者の実態を学問的にじっくり調査することは学者のつとめであった。県衛生部への届出では、この炭住街に四人の患者がいるはずだった。病院を訪れたら、すでに四人とも退院したあとだった。子供たちの住所は、いずれも炭坑住宅街であった。
 炭住街の役場の支所を訪ねて、衛生係の人を探してもらった。
 「へえ、東京の大学から? 何ば調べに来たとですか」
 「まず届出のあった患者が、本当にポリオであるかどうかを、シラミツブシに調べるのです。一見ポリオのようでも、実際にはポリオによく似た他の病気であることが多いのです。これらを一つ一つつきとめて、ほんとうのポリオ患者だけを調べ、その上でワクチンの効果を見てみたいのです」
 「ワクチンといえば、いつか新聞に、生ワクチンを飲んだのが原因で死んだのではないか、という記事が出ていましたね」
 「いや、生ワクチンは安全なもので、死亡の原因と軽々しく結びつけることはできません。しかしどんなに完全に作られたものであっても、生ワクチンは生きたウイルスを飲ませるわけですから、念には念を入れて、あとで変化がおきないかを調べるわけです。そのためにも生ワクチンを飲んだあとで発病した人はぜひ診察してみなければなりません」
 炭住街は、同じ型をした木造の長屋がいく棟もいく棟も連なっていた。瓦はほこりで白く、ひまわりの葉は水を求めてしおれていた。どの棟にも、何軒かは戸障子がはずれ、ひさしが落ちてしまっている家々があった。よく見ると、それらの家にはもう人が住んではいなかった。軒の鴨居は、表札をはがしたあとだけが生々しかった。
 幾棟目かにやっとE子ちゃんの家が見つかった。役場の人は、なぜ東京のえらい先生がここへ来たかを、九州弁で長々と説明した。
 「だけど、あがってもらう所がなくて」
 まだ三十前と思われる母親は、頭の毛をうしろで束ねながら、申しわけなさそうにいった。
 傾きかけた板張りに腰をかけて、平山博士は質問を始めた。
 「生ワクチンを飲んだ日から、どのくらいで熱が出ましたか」
 「熱はあまり気がつきませんでしたが、生ワクチンを飲んで帰って来た翌日頃から、両足とも一度に動かなくなりました。もうびっくりしてしまって、近所の人に聞いたら小児マヒだというので、一ヵ月ほど入院しました」
 「E子ちゃんをちょっとみせていただけませんか。E子ちやんいくつ? 五つ、そう。歩けますね。ちょっと背のびをしてごらん。できない。足首が痛むんだね?」
 「まだ上手に歩けなくて。先生治るでしょうか」
 「このくらいのマヒなら、もうしばらくすれば、きれいに治ると思います。御心配はいりませんよ」
 同じようにして四軒の家をまわり終えた時は、もう夕方になっていた。ボタ山に沈んで行く夕陽が、やけただれていた。
 平山博士は、再び病院へもどって主治医に会った。
 「E子ちゃんの場合、マヒの前に熱がありませんし、両足のマヒの状態などをみても、多発性神経炎の疑いが濃いように思うのですが」
 「私も、そうだと思っていました。脊髄液をとるルンバール検査をしても、細胞数が増えていませんし。ただねえ、ここはご覧のように炭坑の景気の悪い時でしょう。ポリオでないと診断してしまえば、医療費が国から出なくなるものですから、一応ポリオの疑いが濃いとして届出たのです」
 「よくわかりました。ウイルスの分離についても、あとでお知らせ下さい」
 ポリオ根絶の確認にたどりつくには複雑ないくつかの障害があるな、と博士は思った。
 大阪府豊中市のKちゃん(一つ)の場合はもう少し複雑な症状だった。
 生ワクチンを飲んでから十四日目に発病し、右の片足がマヒ、しかもだらりとしたマヒである。どうみても症状はポリオだ。
 しかしこれも脊髄液の検査の結果、ポリオウイルスの近縁のエコーウイルスが検出された。
 このように、いままではポリオのかげにかくれてほとんど目立たなかった近縁のウイルス病が見つかるようになってきた。ポリオの根絶に伴って、これらの類似疾患がどのくらい増えてくるのか、どのような病気を起こすのか、これも追跡調査で調べなければならないテーマであった。
 ポリオとして届出た患者を一人一人追跡調査するサーベイランスの仕事を、平山博士らごく少数の学者だけに任せておくことはできない。
 ただ全国の患者のサーベイランスを、どのように集計したらよいか、未経験のことでその方法は皆目わからなかった。
 田畑記者らはかつての日報にならって、これをNHKの全国取材網で集めてみようと考えた。
 五月のおわり、平山博士の指導で十七項目に及ぶ調査用紙がつくられ、全国の放送局に配られた。三十七年の一月から五月の末までに届出のあった患者は、全国で一〇一人であった。各放送局では、ポリオと届出た患者一人一人について、診察した医師と面接して、調査項目に答えてもらった。青森県では、山奥の診療所までジープに乗って一日がかりで面接に出かけなければならなかった。三重県では、記者が医者に、サーベイランスの意味を説明するという一幕もあったと報告された。
 最初の回答分として富山と青森から調査用紙が届いた時、田畑、石井の両記者は、その封筒をおしいただいた。一〇一枚の調査用紙は、わずか八日間で、一枚のもれもなく東京に送られてきた。
 平山博士を中心に夜を徹しての分析が始まった。マヒの部位は? 発熱した時期は? ウイルスの分離は? 生ワクチンは飲んでいたか? 血清反応は? 平山博士が一つ一つチェックをしながら、これはA、これはB、とポリオとポリオでない患者の分類を進めていった。
 同じ名前の患者が、埼玉県と東京都の両方のカードから発見された。埼玉の子供が東京の病院で治療を受けたため、両方の届出がダブってしまったのだ。
 こんな例が四人もあった。すでにポリオ以外の病気であったことがわかっていた患者も八人あった。
 さわやかな朝の風が、充血した眼に快かった。ほんとうのポリオと考えられる患者は、一〇一人の中で四四人にすぎないという緒果ができ上がっていた。何という事実だろう。
 この結果はやがて平山博士によって生ワク協議会に報告された。全国的な規模でサーベイランス−追跡調査をおこなうことの貴重な意義と、その方法が可能であることが実証されたのであった。
 「これは表彰もんだねえ。」 いがぐり頭の斉藤潔会長が、まるで孫のしたことをほめるような口調でいった。誰もが自信をもった。
 八月二日、生ワクチン協議会の中に、監視部会が正式に設けられ発足した。サーベイランスの機関である。
 発足の会は、東京大学の医学部構内の好仁会館で開かれた。
 大きなアーケードを持つ赤レンガの医学部の研究室や、近代的な機能美をほこる白亜の病室などの一群とはかけ離れて、古ぼけた木造の建物が並んでいるこのあたりには、まだ明治の匂いが残っていた。
 こんなに意義のあるサーベイランスの開始を祝うには、それにふさわしい恰好をつけなくてはと平山博士はしきりに思った。そして医局にひきかえして、とっておきのビールを一箱運んで来た。
 ささやかだが忘れられない初会合だった。部会長には高津忠夫東大教授、中央委員には中村文弥慶応大学教授、村上勝美日本医大教授、松本稔伝染病研究所部長ら七人。
 臨床・ウイルス・疫学・病理・行政の各専門委員が置かれ、調査網として北海道大学・東北大学・東京都立荏原病院・信州大学・名古屋大学・京都大学・岡山大学・長崎大学など全国二十九の大学・病院・研究所が組織化された。
 全国の研究機関が同じテーマについて同じ研究方法・同じ材料で共同作業をするのは考えてみれば大変なことだった。生ワク協議会のような総花性はない地味な努力が内容だった。
 部会のメンバーはたびたび会合を開いて、器械・器具・検査技術のレベル合わせ、検査ウイルスの選び方など、こまかく打合わせて、調査の成績にムラが出ないよう注意を払った。
 調査のための費用として、厚生省の医療研究助成金一〇〇万円が計上され、主な研究施設に五万円ずつ配布された。小額ではあったが、意義の大きい金であった。この研究費の配布通知書には、この金では研究に直接関係のない机や椅子、印刷器具などは購入しないよう、わざわざ注意書きが添えられてあった。少ない研究費で調査を成功させたいという担当者の願いが行間ににじんでいた。
 
 
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