21 さまざまな実り
東京山の手の住宅街、芝白金三光町の通りに、赤い屋根の中央に六角のトンガリ帽子の塔がついた古い木造の二階建がある。
ペスト菌を発見し、破傷風やジフテリヤの血清疫法の途を開いたわが国予防医学の先駆者北里柴三郎博士が建てた北里研究所である。五十年の歳月に耐えた建物の正面階段をギシギシのぼって行った右手には、野口英世博士が研究をした部屋も残されている。その野口博士がいた部屋で、日本生ポリオワクチン研究所の照山虎寿事務局長は朝からソワソワと落着けなかった。
三十九年の一月二十日。日本で初めてつくった生ワクチンの最終検定結果が出る日であった。立ったり坐ったりの照山事務局長の胸に、あわただしかった二年間のさまざまな労苦が次から次へとよみがえって来た。
三十六年の夏、欧米の視察を終えて帰国した生ワクチン調査団が、「生ワクチンは効果が高くて、安全である」という報告を出した時から、厚生省はこれまでのソークワクチンにかえて生ワクチンを国産化する方針を決め、ワクチン業者でつくっている細菌製剤協会に示した。当時ソークワクチンを製造していたのは、財団法人阪大徴生物研究会、東芝化学工業株式会社、千葉県血清研究所、財団法人化学血清疫法研究所、武田薬品工業株式会社、財団法人北里研究所の六社であった。六社は、生ワク国産の話を聞いて驚いた。二年前、厚生省の強い要請とテコ入れによって発足したソークワクチンの国産化がようやく完成し、一号製品がやっと市場に出たばかりであった。各社のこれまでのソークワクチンに対する資本投下額は、合わせて六億円にのぼっている。このうち自社で資金を調達できたのは、武田と化血研だけで、あとの四社はワクチンの販売権を独占させる約束とひきかえにして、第一製薬や田辺製薬などの販売会社から資金を調達したのだった。当時これを回収するのには五年はかかるといわれており、いまここで生ワクチンに切り替えるのは、ワクチン業者にはとうていできない相談であった。
しかし三十六年の生ワクチン一斉投与以降、これからの予防接種が生ワクチン一本となることは確定的であった。それを毎年外国から輸入しているのでは輸送費などコストも高くつくし、その都度検定し直さなければならない。厚生省にしてみれば、それより何より輸入の度ごとに、カナダだ、ソビエトだと政治的な争いが起きるのがいちばんつらい。生ワクの国産が急がれるゆえんであった。
六社では、度重なる協議の末、三十七年の三月初め、東西に一社ずつ生ワク製造法人をつくる案をまとめ厚生省に提出した。しかし厚生省は、首をタテに振らなかった。会社が分立すると技術の結集は難かしいし、コスト高になる。検定料だけでも一回三千万円もするのだ。生ワク製造会社は一社、しかも二週間以内で具体案をまとめてほしいという強硬な方針を示した。
二週間であげるとなれば、もはや、財団法人や公団案は設立手続をするひまがない。結局株式会社でいくほかない−ということに六社の意向が一致した。
新会社は、授権資本一億二千万円、各社二千万円ずつの出資で、役員・技術者も各社から出す。製造所は東京の北里研究所、ということで発足した。
七タ祭りの三十七年七月七日、北里研究所二号館の五階にある講堂で設立総会が開かれ、代表理事に千葉血清研究所の越後貫博士、所長には北里研究所の笠原四郎副所長、取締役には各社の代表一人ずつが選ばれた。
設立趣意書の悲愴な文面には、新会社の苦境がにじみ出ていた。『この事業は、果して何時までに完成するか、できた製品が有効期間内に販売されるか否か、今のところ、国の補償も全然約束されていないので将来の点は期待し難いが、日本の細菌製剤界の技術的威信にかけて、非常勃発の場合国民の期待と要望に応えることを各社は諒解すべきである。』
北里研究所の玄関に横書きの「株式会社日本生ポリオワクチン研究所」の看板がかけられ、設立事務を扱ってきた化血研の照山虎寿氏が事務局長として、野口博士が使った部屋に入った。
照山氏はもともと医学者ではなかった。二十年間役人生活を送り、終戦後たまたま縁あって熊本の化血研につとめた。そこで熊本大学の医学部へ通い、四十四歳の手習いで細菌学のにわか勉強を始めた。照山氏が新会社の事務局長に推されたのはこうした経歴を買われたもので、彼もまた中年すぎからとりくむ赤字覚悟のこの新しい仕事に、人生をかけてみる決意を深く固めた。
九月になって、ようやく生ワクチンの製造が始まった。原株の所有者であるセービン博士は非常に厳格な人であった。生ワクチン製造の設備と技術の水準が、自分の目でみて信用できない相手には、絶対に株を分けてくれない。日本での製造開始に当たっても松本稔博士を通じて次のような条件をつけてきた。
一、日本で唯一の研究所であること。
二、世界でも最高の技術水準をもっていること。
三、製品にはセービンの名前をつけること。
四、当分の問は、日本国内だけで使用すること。
五、製造記録をセービン博士に送って、博士自身目を通すこと。
これらの条件を、厚生大臣または薬務局長が保証すること、となっていた。
ほとんどの条件は揃っており、牛丸薬務局長が保証のサインをした。
第一回の生ワクチンを製造する組織培養のために、アフリカのケニヤから四百頭のミドリザルが輸入された。生ワクチンの安全を高めるために、笠原所長や大和田寛博士ら技術陣は、猿の健康管理や診断のため細心の注意を払った。特に気を配ったのは、SV40とよばれる、ミドリザル特有のウイルスであった。特にこれが最近、発ガンの原因としての疑いがもたれるようになっているところから、SV40はぜひとも除去しなければならない。厳密な検査の結果、実際に使われた猿は、四百頭のうちわずか六十頭にすぎなかった。
ワクチン製造にはT・U・V型を別々にしてウイルスの組織培養や試験に一年かかる。三十八年の九月末国産シロップ生ワクチンが完成し、国立予研の検定に出された。予研では、製品が有効であるかどうか、他のウイルスや細菌がまじり込んでいないかどうか、毒力が復帰しないかどうかなど、二十に及ぶ段階の検査を、猿、ウサギ、モルモットなどを使って、T・U・V型別々におこない、最後にもう一度、総合的に検査をすすめた。
その最終検定の結果が出るのが、今日一月二十日であった。この朝、本土はひさびさに寒波に見舞われ、東北地方では大雪が降った。東京でも、雪こそ降らなかったが風ははげしく、正午すぎても気温は六度ちょっとであった。さむざむとした北里研究所の、この木造館のすみずみにこびりついている先輩たちの偉業の数々が、今日は特に重くのしかかってくるようであった。午後二時をちよっとまわった時、机の上の電話が鳴った。とりあげた受話器の中から、予研の多ケ谷腸内ウイルス部長の快いバスの声が響いてきた。いつもと違ったその声ははずんでいた。
「おめでとうございます。製品はすべて合格しました」
事務局長は部屋をとび出して、同じ二階の笠原所長の部屋にかけこんだ。所長はその顔を見て、すぐ喜びを理解した。「お、お、お」 二人とも声は言葉にならなかった。
一方、厚生省はポリオを法定伝染病にして、生ワクチンを定期義務接種するよう法律の改正準備をすすめ、三十九年の一月十七日、全国衛生部長会議で正式に方針を説明した。
国産生ワクチンは二月末から全国の乳幼児に投与をはじめ、この年、五十三万人の予供がシロップの国産生ワクチンを飲んだ。
予防接種法の改正案は三月二十四日、衆議院の社会労働委員会で可決されたのにつづいて、スピーディに衆参両院を通過し、四月十六日公布された。
生ワクチンはここでようやく正式の医薬品になったのである。
四十年の二月末、国産生ワクチンによる一斉投与がはじまった直後、全国各地で生ワクチンさわぎがもち上った。「子供を小児マヒから守る母親の会」などの団体が、「国産生ワクチンは野外実験をしていないから、不安がなくなるまで一時服用を止めよ」と反対する運動をはじめたためである。
たまたま岡山県の賀陽町や、静岡県の掛川市などで、一歳前後の赤ちゃんが、生ワクチンを飲んだ数日後に死亡するさわぎがあり、反対の火の手が強くなっていった。東京都内の電柱には、「国産生ワクはあぶない。私たちの赤ちゃんはモルモットではありません」というビラがはられた。
市町村の中には、あわてて投与を一時中止したり延期したりするところが相つぎ、岐阜市では、市長が市議会に一時延期をはかり、全会一致で可決して延期する有様であった。
厚生省や各県衛生部は、国産生ワクチンの安全を強調するのにやっきとなった。岐阜県衛生部は「もし投与をしなかったために今年ポリオが流行したら、責任は市当局にある」と談話を出した。厚生省は三月十二日、東京大学の高津忠夫教授や、国立予防衛生研究所の多ケ谷ウイルス部長等、学者を集めて公開説明会を開いた。
このさわぎの争点は、国産生ワクチンは、安全性が確認されるかどうかという点にあった。
反対する人たちは、国産生ワクチンは、動物実験だけしかしておらず、野外試験による人体実験をしていないので、安全性が十分確かめられないと主張した。
これに対して学者グループは、国産生ワクチンに使用した原株は、ソビエトやカナダのワクチン同様、セービン株を用いており、毒性復帰に関する安全性は原株について実証ずみである。特に原株に変異を加えない限り、野外試験をする必要はない。もし国産化の過程で事故が起こるならば、製造の段階で他のウイルスや細菌が混入するか、ワクチンを作る時、培養の組織自体が特有の毒性を持たないかという点であるが、日本の検定基準は、WHOの基準よりさらに厳重にしているので心配は全くない、と主張した。
また、国産生ワクチンができた時、およそ二〇〇人の幼児に投与して試験観察がおこなわれており、東大をはじめ各大学の小児科の医者が十分効果を認めている成績が報告され、岡山県や静岡県の死亡事故は、いずれも急性腸炎など他の病気であったことが判った。
このため、社会党でも三月十九日の中央委員会で、「国産生ワクチンが、他の生ワクチンに比べて安全性が劣るとは思われない」という結論を出して全国の組織に指示を流した。
しかしこのさわぎは、日本の予防衛生行政の弱体を見事にさらけ出してしまった。
若松衛生局長は、「さわぎはナンセンスである。服用するまで何回でも通達を出す」と興奮気味の談話を出したりしたが、市町村衛生当局の自信のなさと、さらにその原因となった中央防疫体制の指導力の弱さに、もっと責任があったといえるだろう。騒ぎが大きくなってしまうと、それを納得させることのできる権威が存在していなかった。
また、このさわぎの中から生ワクチンには直接の関係はなかったが、ワクチン全般に関して、野外実験や一斉投与の際に事故が起きた場合の国家補償の確立の必要性など、多くの問題点が明らかにされたのは逆に一つの収穫であった。
東京オリンピックの興奮が、まだ街のそこここに残っている三十九年の十一月、霞ヶ関の厚生省を台湾の高官が訪れた。許子秋衛生処長、日本流にいえば長官である。京都大学の出身で、若手ながら台湾全土に公衆便所を普及させて環境衛生の整備に腕をふるうなど、切れものとして定評があった。許長官は、日本のポリオ流行阻止の成果を知って、台湾でもポリオ退治をしようと視察に来たもので、日本にとっては最初に自慢できる相手であった。
厚生省の会議室で説明会が開かれた。湯沢防疫課長や、国立予研の北岡正見博士らが立ってポリオの流行の状況、ワクチンの開発、患者の動向などを説明した。
三十五年の北海道の流行、三十六年の熊本の流行、ソークワクチンの開発と国産化、生ワクチンヘの切りかえのもろもろの経過、生ワク協議会の活動などが詳しく話された。そして政府が生ワク一斉投与にふみきり、古井厚生大臣が談話を発表して、一三〇〇万人の一斉投与がおこなわれた様子をじっと聞き入っていた許長官は、生ワク投与で激減した三十六年の発生を見て、うなるようにいった。
「すばらしい。信じられないくらいすばらしいことだ。台湾にもぜひ生ワクを導入したい。北岡さん、台湾では今年すでに判っているだけで四五〇〇人のポリオ患者が出ています。今のお話で、日本でも三十五年には五五〇〇人の患者が出ていますが、日本の人口は九〇〇〇万、台湾は一二〇〇万人です。人口の割合から見れば台湾の流行は大変なことです。私は今の話を聞いて、日本の一斉大量投与方式こそわが台湾でもとるべき道だとはっきりわかりました。ぜひ協力して下さい」
その年もおしつまつた十二月二十五日、日本生ポリオワクチン研究所の照山事務局長は、二十万人分、およそ一トンの生ワクチンをたずさえて台北を訪れた。アメリカでつくられた生ワクチンはソビエトで成長し、それが日本で大活躍して今度は台湾へ渡る。ポリオとのたたかいには政治も国境もない。
「日本小児麻痺生疫苗」−生ワクチン到着のニュースはテレビで報道され、「すばらしいクリスマス・プレゼントだ」と解説された。
このワクチンは翌年の春、台北、新竹など北部四県で、小学生を対象に投与された。
台湾政府はこれを機会にポリオ絶滅五カ年計画の作成にのり出し、許子秋長官と、許書刀台湾省衛生疫苗研究所長のもとで立案作業がすすめられた。疫苗研究所は日本でいえば予防衛生研究所に当たるところで、許書刀所長は東京大学の出身、祭秀華夫人も日本女子医大の出身で、いずれも予防衛生に情熱を燃やしている近代派の人々である。
この結果、台湾では四十一年から大量投与が始まり、ユニセフ援助計画にのせた関係でワクチソはカナダ製のシロップが使用されたが、四十二年までに二六〇万人分が送りこまれ、これまでに二回ずつの投与で一一〇万人あまりの服用がすすんでいる。
日本で開いた予防医学の花が、台湾の地でも実を結びつつあるのだ。
長らく撮影が中止されていた「われ一粒の麦なれど」は、再び陽の目を見ることになった。松山善三氏は脚本だけでなく自ら監督を買って出ることになり、主演坂田に小林桂樹、熊谷記者に逆に真面目な味を出したいと大村昆がトレードマークの眼鏡をはずして参加した。それに高峰秀子、森繁久弥、大辻司郎となかなかのキャストであった。映画の一番最後に「これは実在したNHKの一記者の努力を脚色したものである」という字幕がつけられていた。
でき上がった映画は、ウェットな松山イズムが全篇にみなぎっている作品で、芸術祭奨励賞を受賞した。私との論争点はそのまま松山監督の主張として残されていた。映画はなかなかの人気であった。
映画の提起したヒルコの問題は、政府や学会をはじめ生ワクチン推進の側にまわった者たちにとって、誰しもが、これからの歴史の審判の中で明確に責任を負っていかなければならない問題であった。しかし世論は依然として少数の医者と記者がこつこつと地味なサーベイランスをつづけていることを知らなかった。
この年の秋、台湾から今度は許子秋衛生処長の夫人の許翁淑治女史が、白金三光町の生ポリオワクチン研究所を訪れた。夫の許子秋長官同様、夫人も日本育ちで日本舞踊の名取りの腕をもっており、明るく活発な美人であった。翁淑治夫人は照山事務局長に意外なことをいった。
「先日私たちは一粒の麦≠フ映画を見ました。一人の男が気狂いのようになってとりくみ、ついに国中が動き出すところに、すっかり感動させられました。いま台湾でも、生ワクチン投与の五カ年計画にのり出していますが、都市の周辺部はともかく、山奥の地方ではこの投与の重要さが十分理解されていません。何とかPRをしなければなりません。私は、一粒の麦≠見ていて、そうだ、この映画を台湾全土に巡回させれば、と思いました。これは全く政治の問題ではありません。ええ、日本語のままで結構ですとも。ぜひこの映画を台湾に入れるよう協力して下さい」
翁淑治夫人の申出によって製作社の東宝に連絡がとられた。東宝は意外な外国からのお客さんにほくほくだった。