22 終章
 
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 生ワクチンの投与も年々順調に進み、サーベイランスも精力的に進められた。臨床による患者の所見、ウイルス血清学的検査の所見などの項目を記入した用紙が厚生省の防疫課と各県の衛生部を通じて、患者が収容されている病院に配られ、主治医が一々記入して監視事業研究班に送り返された。これらの資料は、最終的に東京の研究班員と防疫課員で構成している中央委員会で審査され、各患者の症例について臨床とウイルス血清学的検査所見との両方から判定が下された。
 三十七年の届出患者の数は二八九人であったが、この年の調査では二四四人分の用紙が集まり、臨床的に見てほんもののポリオであると判定されたのは七十六人、三二・六%であった。また、ウイルス血清学的に判定できた患者は一〇五人いたが、この中、ポリオウイルスの感染が証明されたものは三十人で、あとの七十五人は感染が否定された。この三十人についても、生ワクチンを飲んだあと間もない患者が含まれており、野生ウイルスはもっと少ないものと考えることができた。
 斉藤会長が「表彰ものだ」といったことは、ほんとうになった。翌年の春、芝白金にある国立公衆衛生院で、今度は生ワクチン協議会からNHK会長へサーベイランスの協力についての感謝状が贈られた。これからの予防衛生行政に全国通信機構の果たすべき役割のひとつが示唆されているといえないであろうか。
 
 三十八年の届出患者は一三一人に減っていた。このうち、調査できたのは一一一人であったが、症状からみて定型的なポリオと判定されたのは三十三例にすぎなかった。また、ウイルス血清学的に判定できた例は三十一人であったが、この中、ポリオウイルスの感染が証明されたのは十一例であった。ポリオ以外の病気の検査もこの調査の主要目的の一つであった。それはポリオと他の類似した病気の区別をはっきりさせると共に、ポリオウイルスが生ワクチンによって消滅したあと、ポリオに代わってこれらの病気が流行するおそれがないかどうかをつきとめるために必要であった。
 三十八年の調査では、ポリオの病名で死亡して解剖された患者の中から、髄膜脳炎、脳炎、多発性神経炎などの病気が発見された。
 三十九年には、届出患者の数は八十四人とついに二桁になった。三十五年から四年の間に、六十分の一以下に激減したのである。
 この中で定型的なポリオと判定されたのは三十七人、ポリオウイルスの感染が認められたものは十七人であった。
 
 四十年の夏休みが近くなったある日、東京大学の小児科教室で高津忠夫教授は、今年も例年のように臨床講義でポリオ患者を実際に見せて説明しようと、患者のカードを持って来るよう担当助手にいいつけた。大学の医学部では四年生になると、臨床講義といって階段教室に入院患者を連れて来て、症状を示しながら診断や治療を教えることになっている。担当になっている助手はあらかじめ患者についての病歴や現在の症状などを調べておいて報告するので、カードを持って来るよういいつかったわけである。担当助手がかえってきた。
 「先生、ポリオの入院患者はいません。今年はまだ一人も入院していないのです」
 全国の大学、医学研究の中心の存在と自他ともに認めている東京大学の病院に、ポリオ患者がいなくなったのだ。いつも十数人の患者がいた三、四年前の状況からは、とても考えられないことだった。
 その年中の東大病院への入院ポリオ患者は、このあと一人だけであった。そしてそれを最後に、四十一年からは一人の入院患者もいなくなった。結局、四十年の届出患者は全国で七十六人であった。この年に患者が発生しない府県は青森・山形・茨城・新潟・富山・石川・福井・岐阜・滋賀・京都・奈良・和歌山・徳島・島根・愛媛・高知・佐賀・宮崎の十八にのぼった。三十五年の大流行地、北海道では、全道でたった一人しか届出患者はいなくなった。
 患者の激減のカーブが、根絶への大きな足音となって響いてくるようであった。
 
 四十年の七月、関東地方のある乳児院に収容されている生後七カ月の赤ちゃんがポリオと診断された。マヒ発病の一週間ほど前から熱がつづき、下がったところで左足にマヒが出た。診察の結果、ダラリとした定型的なポリオのマヒであった。幼児・子供が集団で生活している乳児院でほんもののポリオ患者が出たということで、監視班員たちは緊張した。発病の背後にあるものを追求するために沢田啓司博士はこの乳児院を訪ねた。
 乳児院は、青みがかったグレイの鉄筋コンクリートの立派な二階建だった。ガラス張りの明るい保育室には乳児用のベッドが並び、一階には長期間継続してあずけられる赤ちゃんが、二階には毎日毎日その都度あずけられる赤ちゃんがいた。長期託児の赤ちゃんが二十二人、当日託児の赤ちゃんが十九人いた。合わせて四十一人の赤ちゃんのうち四十人から便と血清が採取され、国立予防衛生研究所で精密検査がおこなわれた結果、三十二人からさまざまのウイルスが分離された。
 コクサッキーA2型、A6型、A8型、エコー22型、ポリオU型などのウイルスが出た中で、ポリオにかかった赤ちゃんからはポリオV型のウイルスが検出された。
 この赤ちゃんは、生ワクチンは全然飲んでいなかった。生ワクチンを飲まないのにポリオウイルスが検出されたとすれば、考えられるケースは二つしかない。野生株のウイルスが感染したか、他の子供が飲んだ生ワクチンウイルスがこの子に二次感染したかのどちらかである。
 そこで、さらに詳しい検査が進められた。いまの検査方法では絶対的とはいえないが、そのウイルスが野生のものかワクチンによるものかを、状況証拠で大体はつかむ方法はある。ウイルスによって中和抗体ができる場合、もとのウイルスの違いによって、中和の仕方に徴妙な違いが生じてくる。その差を見て判定するのが、型内血清学的鑑別試験である。予研では、マーカー、ウエッカー、マックブライドなどの方法で合わせて検査した結果、このV型ウイルスはセービン株に由来するものであるという判断が下された。
 ほかの子供に服用された生ワクチンウイルスが人体を通過する時、毒力を回復し、他の子供に感染したのである。
 残念ながらヒルコの出現であった。
 このようなことがなぜ起こったか。原因となる条件はいくつもあった。
 この子供は生ワクチンを飲んでいなかった。驚いたことに、この乳児院では四十一人のうち三十五人までが生ワクチンを飲んでいなかった。それは乳児院が正規に認可されたものではなかったので、生ワクチンの配給を受けられなかったためだった。また、乳児をあずけて行く母親たちは、多くは勤めに出ているので、平日に子供をワクチンの投与会場に連れて行くのがむずかしかったという事情も重なった。ふつうの場合なら、一人や二人が飲んでいなくても、周囲の子供に免疫ができているから、ウイルスはそんなに繁殖する余地がない。ところが、この乳児院のように大部分の子供がワクチンを飲んでいないと、こんな場合がありうる。
 この乳児がたまたま生後七ヵ月で、母親から引きついだ先天免疫が切れた時期にこの乳児院に来たのも、感染する条件の一つになった。本来野生株ポリオウイルスの場合でも、感染した子供の中で発病するのは千人に一人くらいしかない。いくつかの条件が重なって感染したこの子が、さらに千人に一人しかない確率にあたってしまったのは、よくよくのことであったといわなければならない。
 しかし、何万分の一の確率であっても、発病した以上、ヒルコはヒルコであった。
 この問題を解かねばならぬ。数人の医者と記者が平山博士の研究室で向き合った。
 「先生、心配していたとおりのことがひとつ起きましたね」
 「文字どおり万一のことだったのですが、悪い部分の予測が的中してしまいました。生ワクチンの投与をいっせいにやらなければならないというのは、こういう事態が起きることを防ぐためですからね」
 沢田博士があとを引きつぐ。
 「もしこの赤ちゃんが生ワクチンを飲んでいたら、二次感染で発病することはなかった。だから具体的な事実についていえば、この乳児院では、たとえ認可を受けていない施設であっても、生ワクチンを配って服用させなければならなかったということです。学問的にいえば、やはりこの事故は原則として防げたということですね」
 私もややせきこんでいった。
 「それはそれで正しい。医学としては全く完壁なんだ。この事故によって生ワク否定論など起こるべくもない。それはもちろんだ。だが、私がここでこだわるのは、何としても生ワクによって発病者が出たという事実なんです。ヒルコが出たという事実はつらい」 田畑記者が強くさえぎった。
 「だけど、この問題はわれ一粒の麦≠フ時の上田−松山論争のテーマとはちがいますよ。映画がいったのは生ワクを飲んだ子供の中から、そのことによって何人かのポリオが出るのではないかということだった。
 今度の赤ちゃんは、生ワクを飲んだからポリオにかかったのではない。飲まなかったからポリオになったのだ。飲まない幼児に二次感染が起きることは、その時から指摘していたことだったんだ」
 「そのとおりだよ。われわれははじめから一千万人を救うのだから、その中で一人や二人のヒルコが出てもいいなどとはいっていない。事実そんな例はひとつもない。ただ一千万人が飲む中で何十人かがとりのこされる。その部分が二次感染で発病したとしても、それに責任がないとはいえないんだな。やはりヒルコではあるんだな。これは人間のやることの限界かもしれん。私はキャンペーンをつづけているあいだ中、このことを、あえていえば神に対するおそれともいうようなものをもちつづけてきた。つまりだ、この赤ちゃんに対する責任者は誰なのかな」
 私は平山助教授の方を向いた。
 「その気持はよくわかります。一〇〇パーセントに飲ましきれないという問題、そのことに胸をいためる必要はあります。たしかにそれはもう神に対するものだ。
 同時に科学の立場でいえば、投与が一〇〇パーセントになっても、或いは全く投与をしなくても、つまり科学の向う側で起きる問題がある。それは神の責任におけるヒルコ、つまり神のつくったヒルコですよ。
 それは子供の体質の問題です。たくさんの子供の中には、たとえばガンマーグロブリンがない症状、つまり免疫を全くもたない体質の子がいます。このような体質がある以上、生ワクチン自身がいかに完壁でも発病はさけられないでしょう。
 この無ガンマーグロブリン血症のほかにもたとえばステロイドホルモンやアルキル化剤を使用中の子供とか、白血病の子供とかは免疫のでき方が異常であることがわかってきています」
 平山助教授は、みんなの顔をゆっくりと同意を求めるように見廻わしながら、言葉をつづけた。
 「ポリオ生ワクチン自身は、非常にすぐれているということは断言できます。たとえば、種痘後脳炎はヨーロッパでは四〇〇〇人に一人といわれています。これまでの成績でみてもポリオ生ワクチンは、種痘やBCGのような他の生ワクチンに比べてはるかにすぐれています。
 私の確信は、この生ワクチンによって、神の責任によるヒルコをも救うことができるということです。このポリオ生ワクチンによって、やがて野生のポリオウイルスをこの地上から絶滅することはできる。その時ヒルコは起こりえない。なぜなら、そうなれば生ワクチンも不必要になるのだ。それが根絶です。
 われわれは、今後も発病者の最後の一人までそのウイルスの毒性を徹底的に追求していく。根絶を確認するまでサーベイランスを完遂する。その努力こそ神に対する科学の責任だと思いますよ」
 根絶≠ニいう言葉の概念が、平山博士の話の中で確定したような理解が、みんなに共通した。新しい一目標がきちんと整理されたような安定感が一座の中にただようようであった。
 「やりとげよう」
 そういって人々は立ち上がった。それをやるのはわれわれだけだ。重苦しかったが勇気は萎えなかった。
 あとの話だが、赤ちゃんの症状は軽く、ほとんど後遺症はのこらなかった。よかった。
 
 四十一年の二月から三月にかけて、羽田空港の周辺でジェット旅客機の墜落事故が相次いで起きたころ、私の自宅に妙な電話がかかりつづけた。
 私が不在なのを知ると、電話の主はすぐ話を切った。
 「いえ、御本人に直接お話をします。私の名前もその時申上げます。またかけますから気にしないで下さい」
 気にするなといわれても、どうしても名をいわない電話の主を家人は気味悪がった。五回目か六回目、夜遅く帰った私を電話口につかまえて電話はいった。
 「私の声わかりませんか、土屋です。富士吉田の保健所の土屋ですよ」
 「あーっ、これはなつかしい。今どちらからですか」
 「じつは東京です。それも厚生省防疫課に来ました。あなたを驚かせて喜んでもらおうと思って名前をつげなかったんです。ゆるして下さい。ぜひお目にかかりたいですね」
 土屋氏は本省の防疫課長補佐への栄転であった。このとき防疫課長には、いったん検疫課に出ていた春日斉氏が就任した。
 
 まもなく千葉大チフス事件が起こった。土屋課長補佐はひそかにこの事件の調査にもぐった。
 事件の端緒となったのは、静岡県の社会保険三島病院での集団チフスであった。三島病院では、前の年の暮からその年の三月にかけて、外来入院患者や職員の間でチフスが発生し、松田副院長が死亡するなど、患者の数は四十人にも達していた。調べてみたら、三島病院では前の年の四月と八月にも発生があり、千葉大学附属病院から派遺されていた二人の医師がチフスにかかっていたことがわかった。千葉大学附属病院といえば、その年の同じ頃、医師や看護婦の集団チフスが発生している。土屋課長補佐は千葉大学へとんだ。この人一流の粘りづよい調査がはじまる。千葉大から三島へ派遣されていた鈴木充医師の実家や親戚・知人の四家族がチフスにかかっていた。チフス菌はいずれもD2型で、同じ系統の感染とみられた。
 土屋課長補佐は最初、鈴木医師が保菌者で方々に菌をまいたのではないかと考え、千葉大学の病院側にこの医師の保菌検査を依頼した。
 しかし、疫学的な調査をすすめていくうちに、奇怪な事実が判ってきた。これらチフスにかかった親戚や知人の場合、周辺に全く発生がなく、保菌者も陰性で自然に感染したものとは考えにくい。また、ふつうのチフスの感染では、十日から二週間ほどの潜伏期があり、患者や保菌者からの二次、三次感染があるものなのに、この場合はそれがなく、土産にもらったバナナなどを食べた直後に必ずといっていいほど患者が出ている。しかも、急激な食中毒の症状を示しており、大量の菌に汚染されたものを食べたのが原因と考えるのが自然であった。調査は精細をきわめた。この人ならではの仕事だった。富士吉田で○・一CC皮内注射をついにやり切ったあの根性だった。医師保菌検査の結果が出た。陰性であった。もはや、故意に菌をばらまいたと疑いを向ける段階であった。土屋課長補佐は鈴木医師と面接して、この一年近くの行動をあとづけ、行く先々でチフスが発生している関係を明らかにした。
 土屋レポートによって、最高検察庁や千葉・静岡の警察本部も本格的な捜査にのり出し、四月七日、鈴木充医局員が千葉県警察に逮捕された。鈴木医局員は、十四日、犯行の大部分を自供した。鈴木の自供が報道された翌日、私はぜひと思って士屋氏の自宅を訪ねた。
 「六年ぶりですね、土屋さん。そのあなたが千葉大チフス事件を明るみに出した。私の感想はね、仕事をする人は必ずどこででも頭を出す、ということです。土屋さんの富士吉田時代を知っていたことは、今や私の自慢ですよ」
 「うれしい言葉ですね。しかしね、これはいやな事件でした。私にもねえ、ずいぶんと批判がありました。調査の手順を型通りふんでいないではないかという非難や、防疫課の仕事は発生の実態だけをつきとめるのが任務で、それ以上は行きすぎだという慎重論もありました。
 しかし火事はどんどん燃え拡がっているのです。ここでもし、ふだんの時のような型通りの手順をふんでいたり、中途半端な段階で放り出したりしていたらどうなりますか。犠牲者は増えるばかりですよ。たくさんの人が困っている時に、手順を優先させるというのは実践論を持たない議論です。私に実践論優先の確信を与えてくれたのは、上田さん、富士吉田のワクチンのたたかいでしたね。これはもう決定的です。これをいえる相手をもっていることをうれしいと思いますよ。私も、結果的には一人の人間を社会的に葬るわけですから、ずいぶんと悩みました。しかし、これは専門家でないと調べられない。私も科学者のはしくれとして、調べれば調べるほど疑いは強まるばかりでした。意地をはって徹底的に調べてよかったと思います。私の故郷の信州では意地っぱりのことを堅(かた)っこ≠ニいいますが、私もあなたも、ポリオキャンペーンの中から生れた堅っ子なんですねえ」
 土屋課長補佐はきわめて屈託なく明るく笑った。チフス事件とのたたかいは、ポリオとのたたかいと全く同じ色の情熱の炎によるものであった。
 
 「こんなビックリするほどのことが、どうです、事実なんですよ」 防疫課長春日斉氏は、ポリオの流行予測のデータをかざして、人さえみればそういって説明する。
 ウイルス性の伝染病は、いったんかかると免疫ができて、二度と同じ病気にはかからない。だから、血清の中にウイルスに対する中和抗体、つまり免疫をもっている人が多い地域では、伝染病はひろがりにくい。反対に中和抗体をもっている人が少なければ、流行の危険があるわけだ。もしそのような人が多勢いるようだと、直ちに予防措置を講じなければならない。春日課長の以前からの念願は、伝染病にもたとえば台風の予報などと同じように流行予報を打出したいということだった。そこで厚生省は四十年まで全国十九の府県で、九十六カ所の地域を選び、そこに住んでいる健康な人たち九六〇〇人について流行予測調査をおこなった。春日課長が、人をみては驚きを売りこむのはこの調査の結果についてだった。
 図では、三十六年からの調査結果がグラフに示されている。三十七年からあとは、一歳までにほぼ八○%の子供に免疫ができ、十二歳くらいまでの予供は、ほぼこの線を維持している。生ワクチンを飲まなかった三十六年の抗体保有率と比べると、あまりにも明らかな違いである。しかも、接種率が七〇%台に下った三十八年の翌年は、中和抗体の保有率も一様に下がっている。現金なものである。
 しかし、ここまではほぼ予想していた通りだ。驚いたのはその先である。中和抗体の測定と同時に、健康な人たち三〇六九人からウイルスがいるかどうかの検査をしたところ、ウイルスが検出できたのはたったの一人であった。このウイルスはU型ウイルスであったが、これも生ワクチン由来のウイルスがまぎれこんでいる可能性もつよい。ポリオ以外のウイルスが一七三人から検出されたことを考えると、もはや野生ポリオウイルスはこの国にはいなくなったといってもよかった。一体、ポリオウイルスは、どこに行ってしまったのだろうか。

 ■年令別,ポリオ型別ウイルス保有検査状況(昭和40年)



 
総数


 
0才


 
1


 
2


 
3


 
4


 
5


 
6


 
7


 
8


 
9


 
10-14

 
15才以上 不詳

 
被検者数 3,069 151 233 241 230 197 273 223 179 205 172 718 237 10
ポリオウイルス

 
総数   1  0  0  0  0  0  1  0  0  0  0  0  0  0
T型   0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0
U型   1  0  0  0  0  0  1  0  0  0  0  0  0  0
V型   0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0  0
ポリオ以外のウイルス  173
 
18
 
23
 
30
 
15
 
18
 
21
 
10
 
9
 
5
 
5
 
18
 
 0
 
 1
 
   (編注:昭和40年=1965年)



 「生ワクチンを飲んで免疫ができると、野生のウイルスはもうその人には入って来れなくなりますね。すべての人が免疫をもつと、ポリオウイルスはついに行き場所がなくなって野たれ死にするほかはないわけですよ」
 「生ワクチンのウイルスはどうなるのでしょうか」
 「生ワクチンといっても生きたウイルスであることに変わりはありません。飲んだ人の身体から出て再び他の人に感染しようと思っても、野生ウイルスと同じく行き場所がなくなるわけですよ。野生ウイルスは、あるいは私たちがまだ知らないかくれ家をさがしているかもしれません。しかし、この調査で見る限り、少なくとも今や人の目にふれるところからは消えてしまったということです」
 童顔の春日課長の言葉には、事実の重みがもつ迫力があった。それは、根絶の勝利であった。春日課長の表情には、このとき防疫課長であることの誇りがあらわれていた。
 御注意ねがいたい。
 それはすなわち、世界で初めてのポリオの根絶である。
 日本にポリオはなくなった。これまで何千年、いたいけな子供たちを一生の不具に陥し入れたポリオ。ここ二十年、わかっているだけでも数万人の子供たちの手足の自由を奪ったあの悲惨な病気は、もう日本から消えたのである。
 驚くべきことが本当に起きたのであった。残念なのは、驚くべきことを知っている人が少ないことだ。
 
 四十二年六月のある日、厚生省で「ポリオ流行予測事業に関する研究班の会合」が開かれ、四十一年のサーベイランスの報告が東京大学平山宗宏助教授によっておこなわれた。平山博士は東大医学部に創設された母子保健学の講座の初代責任者として助教授に迎えられた。この講座の開設自体が予防医学の具体的な開花であり、ポリオとのたたかいの旗手であった平山博士にとってそれはまことにふさわしい職場と栄誉であった。
 助教授は報告の第一ページをよみ上げた。
 「昭和四十一年のポリオ届出患者は三十三人で、前年の七十六人の半分以下になりました」
 ほう、という声がいっせいにもれた。三十五年には五六〇六人を数えた患考は年々激減し、三十九年には八十四、四十年には七十六にまでなったが、もうそれ以上は、届出患者としては、ギリギリまで来ているのではないかと学者の間では考えられていた。
 平山助教授はそのような反応に対して、全く表情も動かさず、この人らしいケレン味のない淡々とした口調で報告を続けた。
 「届出患者は三十三人でありましたが、サーベイランスの報告書は三十六人分集まりました。これはポリオではないが類似疾患と認められるので念のためサーベイランスには報告しておこうという例が三例あったためで、日本中の学者の関心がそこまで高まっていることを証明しています。
 三十六例の中で、臨床的な判定で定型的なポリオ様マヒと認められたものは全体の三分の一の十二例でありましたが、この中には、ポリオ様のマヒを呈する類似疾患が含まれているものと考えられます。
 次に、中和抗体または補体結合反応によりますウイルス感染の検査によりますと、感染が認められたものは四例でありました。しかし、患者の中から直接野生ウイルス株が検出されたのは一例も認められません。また、生ワクチンを服用して四日から一カ月の間に発病したもののうち、生ワクチンウイルスとの関係が否定できない、いわゆるコンパティブル・ケースは三例ありましたが、これも直接関係づけられる証拠はありません」
 報告はこれらの数字を一つ一つ細かく説明したのち、最後に次のように結んだ。
 「昭和三十五年頃までは、わが国では毎年三〇〇〇人から四〇〇〇人のポリオ患者が発生し、三十五年には五六〇〇人を越えましたが、三十六年夏の生ワクチン一斉投与に続く毎年の行政投与により、患者の数は激減しました。そして三十八年頃からは、免疫の中和抗体をもった人がわが国で七〇%から九〇%を占め、ポリオ野生ウイルスが流行する余地は全くなくなりましたが、今では、健康な人からも患者からも、各種のウイルス検査の結果、野生ウイルスが検出できなくなり、生ワクチン投与によって目的とした野生ポリオウイルス放逐作業についていえば、わが国では、すでにポリオは根絶しえたといえると思います。あと二、三年のうちには、根絶が完了したことを、さらに精密な資料の上で確認できると思われます。
 ただ、ポリオの根絶をどの点で確認するかは、はなはだむずかしい問題であります。従来の意味におけるポリオ患者はもはやないはずでありますが、それにもかかわらずポリオの届出患者がゼロになることはありえないと思われます。つまり、ポリオ様のマヒを起こす類似疾患は一〇〇以上もあり、これらがポリオとして届出られるためであります。
 また、ウイルス検査でありますが、生ワクチンの投与が続けられている限り、ウイルスは分離され中和抗体の上昇も認められるわけです。だから、もしかりに、日本である時期に生ワクチンの投与をやめてみれば、ポリオウイルスが全くない状態がみられるというようなことでありましょう。そこで今後の問題は、ポリオ類似疾患であると思われます。先ほども申し上げましたように、ポリオに類似したウイルス性疾患は、一〇〇以上にものぼり、このうちエコーウイルスだけでも、三〇種以上の型が知られています。生ワクチンとの関係が否定できないコンパティブル・ケースの中には、このエコーウイルスによるマヒも含まれていると考えられますが、ポリオ生ワクチンを服用した後でありますと、エコーウイルスはポリオ生ワクウイルスの陰にかくれて検出できない場合が多いと考えられます。
 日本からポリオ患者はなくなりますが、そのことを明らかにするには、このような意味でも、今後ともサーベイランスを徹底的におこなわなければならないということであると思います」
 出席者に感動がみなぎった。しかし、淡々としたこの報告をきく人の数も少ない。おそらくこの報告会がおこなわれたこと自体を知る人は少ない。もはや、ポリオヘの恐怖は無用のものになっただろう。そのこと自体は多分望ましいことにちがいない。だが、後始末の根絶の確認に最も大切なサーベイランスの仕事に、厚生省の補助金がいつのまにか打ち切られていた。「生ワク協議会の監視部会」と、それをひきついだ「ウイルス性神経系疾患の鑑別診断研究班」に対して、三十八年までは一〇〇万円の補助金が出されていたが、三十九年からは流行予測事業の中に組み入れられ、サーベイランスカードの集計以外の費用は、研究班の学者たちがポケットマネーをあてている状態だった。学者の良心から出発したこの事業は、再び学者の良心によってしか支えられない仕事へともどっていたのであった。
 平山助教授の報告に拍手を送った学者たちは、また黙々と帰って行った。


  ■8年間のポリ才患者推移と生ワク接種成績
  
年度
 
届出患者数 人
 
死亡 人
 
生ワク服用のべ
人員数  万人
接種率 %
 
34
1959
2,917
 
201
 

 

 
35
1960
5,606
 
317
 

 

 
36
1961
 
2,436

 
169

 
2,722

 
夏91,0
冬87.0
 
37
1962
289
 
66
 
2,337
 
春 93.0
秋89.0
38
1963
131
 
48
 
1,447
 
春83.9
秋70.3
39
1964
84
 
24
 
2,249
 
春74.2
秋78.8
40
1965
 
76

 
28

 
2,487

 
春82.5
秋85.0
 
41
1966
33
 
7
 
2,519
 
1回70.7
2回67.7
   (編注:年度に、昭和の他、西暦を付記した。)

 
 四十二年の春、東京の昭和通りに面した日本橋江戸橋のビルの中に、イスクラ産業の新しい薬品の店と事務所が増設された。
 イスクラ産業は、いまではソビエトの医薬品の輸入の九〇%のエージェントを占めるまでになっていた。
 五月十二日、新しい事務所の二階で、創業七周年の記念パーティーが開かれた。午前と午後の二回に分けて招待したのに、それぞれ百人をこえる来賓がつめかけ、部屋いっぱいになった。イスクラ産業の隆盛を示すものだった。ソビエト大使館のベヅルカビニコフ参事官や在日通商代表部のザチニアエク副首席ら東京在住組のほか、モスクワからわざわざやって来た医薬品公団のキリヤーノフ副総裁らの姿も見えた。簡単なビールとオードブルの立食いパーティーであったが石川士郎社長は感慨無量であった。
 七年前、会社を作って初仕事となったガランタミンの輸入は、新橋の貸ビルにある友人の事務所の中に又借りをした机の上のことだった。ソビエトに対する何の知識もなく、人工衛星を打ち上げるくらいの国だから、きっと薬もすばらしいだろうと考えて薬品販売会社へ出かけ、その非常識を笑われたものだった。ボンボン生ワクチンの持ちこみがそのあとのポリオ騒動の波に乗って運が開けた。ポリオ騒動が人生を決めてしまった何人かの一人であることを、石川社長はこの華やかなパーティーの中で胸にしみこむように感じていた。
 小池勢津子さんが来てくれたこともうれしいことだった。勢津子さんはすっかり落着いた二児の母。変わらないのはスーツの色のグリーンだなと彼は思った。
 NHKの記者たちにも招待状を出したが、当時の記者はすでに一人も東京にいなかった。神戸も石井も田畑まで地方に転勤してしまっていた。力いっぱいの仕事をするのに記者の命も短かいものだなと、石川社長はそのことにも若干の感傷を味わった。
 私もどうしてもこのパーティに出かけられなかった。祝電をうった。
 「バンザイ、バンザイ、ガランタミントオッタ」
 返事がきた。
 「キョウノパーティーデ、ウクライナノコニャックヲノマセタカッタ」
 私はこの電報をみて考えた。ここには発信者の辿った七年間の熱い想いがこめられている。
 きょうのパーティーに集まった人びとには、その想いがよく理解できるだろう。みな根絶の一点をめざして歩んできた人たちだからだ。そしてこのパーティーにゆかりのない千万単位の一人ひとりにも、あの激浪のなかでポリオに結ばれるさまざまな想いがあったにちがいない。それらがみな一つに融け合うことのできる感慨は、すべての想いが根絶の日にめぐり会えたからにほかならない。そうでなければ解消できない多くの悩みや矛盾が渦巻いていた長い未経験の道程だったのだ。
 この記録の筆を擱(編注:お)くにあたって、私は私自身のそのことを書いておこう。
 私がここに報告しようとしたことは、あれほどに日本中を揺り動かした歴史的大イベントを、あまねく書き綴ろうなどと企てたのではない。身のほど知らずのデーモンに身を委ねた微粒の一記者が、あの全日本的な世論のうねりを総代弁しうるはずはない。それは、ジャーナリストやジャーナリズムでは手の届きえない巨大な熱量であり、快挙であり、歴史でさえあったことを、敬虔に、謙虚にいうのみなのだ。
 許されるなら、その大うねりの底に一匹のナマズがいたことを秘かに、一度、いわせてほしいと思っている。
 むろん、それは私一人が見渡せる限りでの呟きであり、あの激動の中に見えかくれした多くの群像の心象を語りつくせるはずがないのも、また、当然のことだ。
 それは、どんな小さな家族をも巻きこんだ不安であり、どんな市町村の窓口をも苦しめた行政責任であり、科学者の従来の領域への異議申立てであり、いやそれらの分類には区分されようもないあまりに多くの困難であったのだ。
 私の困難についていえば、一九六一年のポリオを、テレビからあえて大流行と断定して世論の関心を喚起し、根絶へのエネルギーの燃焼につとめたこと。ポリオ届出患者の千人突破の日を生ワクチン一斉投与に踏みきらせる勝負のヤマと設定し、計算どおり六月十五日か十六日に患者が千人になるのを待った二律背反の意識。今こそポリオ根絶のチャンスと意気ごみながら、今はまず母親たちに「こわい」と言ってもらわなければならないと願う心理。それらの矛盾の胸痛は根絶の日に到達しない限り解消されないことだった。
 いま、その日がみえた。
 私も全国のお母さんたちに心晴れてむき合う丘に登る。
 わがデーモンの声を伝えよう。
 さて、なんと言おうか。
 やっぱり、「ありがとう」というしかない。「ありがとうございました」
 
<第5部 根絶 終わり>
 
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