復刻出版にあたって *
(編注:復刻版あとがき)
 
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 国会議員満二十年を記念して、この一冊が再出版されるという幸せに感動しています。
 省みて、微力の二十年は、慚愧するところのみ多く、ひとえに数知れぬ方がたのご指導、ご友情、ご支援のおかげというほかはありません。
 そして、そういう皆様によって記念出版に選んでいただいたのがこの一冊であるということが、私にとって、ひどく心に沁みる意味をもつのです。
 それというのも、当時、NHK記者としての私にとってポリオキャンペーンは、三〇歳代さし入りの情熱を最高度に燃やし上げることのできた記念碑であり、あのとき、「流行阻止ではない、今や根絶なのだ」とよびかけた発想と展開は、私の今日までの、記者から政治家への道を、一本の直線に結ぶ原点なのです。
 そして同時に、いまでは想像をこえる版図で展開されたNHKポリオ根絶キャンペーンは、決して私ひとりの情熱や行動によって遂行され成功したのでなく、じつに多くの人びとのお力が凝集されたことなのだという事情が、まばゆいほどに、拙いこの一冊の記録のなかに脈打っているのです。
 もう少し理届っぽく言わせていただければ、私の生涯の原点は、この日本列島からポリオウイルスを放逐しきってしまおうという運動論の発想そのもののなかにあります。若い私は青空に絵をかくように「学問と世論と政治の三位一体」論を唱えました。「五千年来、人類の業病であるポリオを消すには、この電子顕微鏡の世界の可能性を確立する科学(生ワクチン開発)が第一の灯火であり、この光を世論(とくに母親)に点火し、動かぬ政治(防疫行政)を動かして、全社会的展開へと燃え拡がらせること」だと。
 私はそれが社会の進歩の原型だと考えつづけています。ポリオ根絶論はそれを自分の体で実行する出発点となりました。私の二十年の政治行動は、私自身の明確な自覚として、この運動論を原点とする延長線上にあったのです。
 したがって、この原点をあのときの目で率直に記録した『根絶』を、あのとき以来私を支えてくださった多くの皆様によって、ここで再版の一冊に選んでいただいたことは、この道を歩んできた私の二十年にとってまたとなき自己確認であり、かつ私は、この再版を胸に抱くことによって再びここで、かくも多くの皆様に支えていただいていることを実感することができるのです。
 初版時の写真のネガはすでに散逸し、故人となられた方も多く、あえてそのまま手を加えずにおきました。むしろ今、ポリオのために、二十年の時の流れの意味を考えるのにふさわしいかと、思っています。
 
     T
 
 さて、あれから二十年。
 その後の日本のポリオについて報告しなければなりません。まず現況についてです。
 『根絶』の初版発行は、一九六七年十月二十六日です。この年の六月、厚生省で開かれた「ポリオ流行予測事業に関する研究班会合」で、東大の平山宗宏助教授(当時)の行なった報告をもって、本書は「日本のポリオはあと二、三年で根絶」という立場で書かれています。
 平山助教授の報告は、一九六六年のポリオの届出患者がじつに三十三人にとどまったことと、そのサーベイランス(疫学的追跡調査)の結果を詳細に明らかにしました。一九六〇年ごろまでは、毎年、三千人から四千人のポリオ患者を出し、とくに一九六〇年には五千六百六人を数えたポリオ患者の届出が、ついに三十三人になったことの事実は、それだけであまりにも劇的でありました。
 しかし、それ以上に重要な意義は、このとき平山助教授が指摘した次の点にあります。
 「(この三十三人の)患者の中から野性ウィルスが検出されたのは一例もありません。一九六一年夏の生ワクチン一斉投与以来、一九六三年ごろから免疫の中和抗体をもった人が七〇%から九〇%を占め、生ワクチン投与によって目的とした野性ポリオウィルス放逐作業についていえば、あと、二、三年のうちには根絶が完了したことを精密な資料のうえで確認できると思います」
 その「確認」は、一九七五年四月十二日発行の「日本医事新報」別冊(第二六五九号)に、国立予防衛生研究所、腸内ウィルス部長多ヶ谷勇博士と東大医学部教授平山宗宏博士の共同報告の形で掲載された「ポリオ・サーベイランス成績−昭和三七年から四八年まで」の論文で、見事に果たされました。
 「日本医事新報」は、日本で最も権威のある医学誌で、ここに両博士連名の論文が掲載されたということは、医学界での承認とみてもよいものです。
 論文は、調査方法、審査判定規準、分類所見、調査成績など詳細にわたり、その緒論として次のようにのべています。
 「これらの症例から、分離されたポリオウィルスで非ワクチン株性状を示したのは、一九七一年の分離株(V型)一株のみであり、その近辺からその後同様のウィルスは分離されていない。
 以上の成績から考えれば、わが国から野性ポリオウィルスは根絶されたと考えてよいであろう」
 ここに根絶という二文字の存することに、今でも私は胸を熱くします。キャンペーンを始めるにあたって、私は「流行阻止」 「撲滅」などという言葉を強く拒否し、頑ななまでに「根絶」という言葉だけを使ってきました。必ずゼロをめざすのであり、それが可能なのであり、そこが中途半端であってはならないと考えたのです。流行阻止とゼロとは違います。撲滅と根絶は違います。行政は前者の域で任務を果たすのであり、行政のバランスとして、他の多くの伝染病の中でただポリオのみについて根絶までをめざす必要はありません。それだけに私は一層、根絶にこだわり、キャンペーンの方向をそこに統一することに執着しました。あとのことですが、本書の出版にあたっても私は本の題を『根絶』とすることで出版社(初版・現代ジャーナリズム出版会)側と話が難航しました。売れない題名という意見を押し切って、どうしても『根絶』にしてもらいました。根絶の日が必ず訪れることにのみ運動の目標を定めてきたのです。
 
     U
 
 一九六七年での「二、三年後には」という予測は、一九七二年、つまり五年後に、ついに学問的な確認をえたのです。
 ところで、それにもかかわらず、いやその故にこそ強く指摘しておかなければならないことが今、ここにあります。
 右のように日本医学界の最高権威によってはっきりと根絶が確認されながら、この事実についての社会的、行政的認識が今もなお、なおざりにされているのです。
 それは、事実や結論についての肯定・否定の見解が分かれているなどということではありません。「根絶」の意味がつきつめられていないことの一事のみによるのです。
 今は亡き多ヶ谷博士がこの論文で指摘されるように「一九六一年のセービンワクチンの一斉投与以来、ポリオ患者の激減は、わが国防疫史上、特記さるべき偉業」だったことに誰一人異論がないにもかかわらず「一九六八年までのサーベイランスの結果は、英文では発表されながら邦文の発表がなされていなかった事情」もその一因です。
 しかし、それ以上に、日本におけるポリオの根絶とは「日本全土からの野性ウィルスの放逐」という概念が確立されていなかった点に主因があります。
 生ワクチンによる日本のポリオ根絶とは、日本全土から生ワクチン(弱毒ポリオウィルス)によって、野性ウィルス(強毒ポリオウィルス)を完全に放逐することです。むろん、この場合でも日本以外にはポリオはあるのですからその侵入をうけるケースはあり得ます。しかしその極少の確率は日本のみの根絶を逆証するものであり、日本における野性ウィルスの完全放逐という根絶の概念と矛盾するものではありません。
 もしそうでないなら、天然痘のように、そのウィルスが全地球から消滅した場合以外は単独地域における防疫上の目標設定の意味はありえないことになってしまいます。日本の島国という条件に着目して、日本単独の根絶をめざした意味とプランはそこにあったのです。そして日本の根絶の成功を第一歩としてこのようなポリオ征圧が全地球に拡がることによってのみ、世界のポリオ根絶が達成されることが明白になったのです。
 私はその立場から、国会で厚生大臣の替わるたび何回も「野性ウィルスが完全に消滅したという根絶」の確認を行政に求めましたが、新任の厚生大臣からいたずらに敬意を表されるのみで明快な回答をえませんでした。予防医学の前進のための貴重な題材の放置を残念に思ってきました。ノドもとすぎれば、という類いの嘆きでありました。行政にこれ以上を求めること自体が無理なのでしよう。
 しかし、事情はいま、大きく変わりつつあります。
 二十年を経て、ポリオ生ワクチンを飲むこどもの数、つまり実施率はノドもとすぎても≠ワすます高まり、なんと九五%以上、時には一〇〇%という信じられないほどの実施率が持続されているのです。常識をこえるこの数値は、学界や行政の目を再び開かせずにはおきません。「他の伝染病なみに」多発さえしなければよいという行政の目標がすでに果たされたあとも世論はポリオを忘れることなく、この歳月と数値をかざして、ポリオ根絶についての今日的意義を明確にするよう求めているといってよいでしょう。
 厚生省も積極的にこれを評価し「遅ればせながらできるだけ近い時点で、ポリオの日本根絶宣言をすべきだ」(厚生省保健医療局)と姿勢を強めています。二十年間、保健所に通いつづけてくれた圧倒的な母親たちのおかげで、私たちはもう一度、日本のポリオ根絶宣言にめぐり会う機会を得るのです。七月七日の会には全国から著名な多くの小児科学者が集まってくれています。この会は事実上の日本のポリオ根絶確認の場となるのです。
 
     V
 
 じつは、この問題は二十一年前、「あと二、三年」と宣言した厚生省での報告会の席で、平山助教授がすでに指摘していたことでした。
 「野性ポリオウィルスは根絶され、従来の意味におけるポリオ患者はもはやいないはずですが、それにもかかわらず、ポリオの届出患者はゼロになることはありえないと思われます。類似患者や、免疫不全、外国からのウィルスの侵入などです。このためにも今後ともサーベイランスが徹底的に行なわれなければなりません」
 二十年後、実際の結果はどうなったか。厚生省の資料を次頁に掲げておきます。
 これは、平山助教授の指摘のとおり、免疫不全のケース、いわゆる生ワクチンの祖先がえりのケース、外国から侵入のウィルスに冒された三つのケースです。厚生省の表にははっきりあらわれていませんが、第一と第二のケースが二〜三年に一人の割合い、第三のケースはこの十五年で二人です。
 これは、日本のポリオ根絶が完成した今でも、全地球上のポリオが根絶されない限り避けられない問題点を浮き彫りにしています。むろん、この極少の隙間を狙ってくる確率に対して、なお科学と情熱とのたたかいはつづけられねばなりません。同時に、この完成されたデータを前にして私たちは、世界に先がけた日本のポリオ根絶の意味をこの二十年で総括する位置に立っているといってよいのではないでしょうか。
 たとえば、野性ウイルスの全くない日本とそれ以外の国ぐにとの違いは、科学と行政と母と子にとって全く別次元に考えるべきなのです。
 こんな例がありました。
 ある大学医学部で、肝炎の研究のためチンパンジーを数匹輸入しました。このうち一匹がポリオのマヒを起こしたのです。調べてみるといっしょに輸入した別のチンパンジーがポリオウィルスをもっており、これから感染したものと考えられます。根絶の日本と比べて外国では、動物の間でさえポリオがこれほど現実のものだということを、あらためて知らされる実例でした。


■年次別ポリオ届出患者数及び死亡者数
疾病年次
 
急性灰白髄炎
 (ポリオ)
  昭和  患者 死者
1959  34   2.917 201
1960  35   5.606 317
1961  36   2.436 169
1962  37    289  66
1963  38    131  48
1964  39    84  24
1965  40    76  28
1966  41    33  17
1967  42    26  16
1968  43    20  13
1969  44    16  12
1970  45     8  11
1971  46     6  8
1972  47     7  1
1973  48     6  4
1974  49     4  2
1975  50     4   3
1976  51     -   -
1977  52     -   -
1978  53     -   -
1979  54     -   -
1980  55     2   -
1981  56     2   -
1982  57     1   -
1983  58     -   -
1984  59     -   -
1985  60     1   -
1986  61     -   -
1987  62     2   -
(一九八七年については患者数は十月末現在、死者数は八月末現在)
 
     W
 
 平山さんのことばかり書くようですが、二十年たって、平山さんも東大を定年退官し名誉教授になりました。思えば、本書に登場していただいた多くの権威のうち亡くなられた方も少なくありません。
 平山さんは、ポリオとのたたかいという予防医学の幕明けの先陣に立って、一九六五年東大に新設された医学部母子保健学教室の初代助教授、七一年初代専任教授に就任しました。従来、小児科と産科に委ねられていた「ゆりかご以前」を、双方から新分野として独立し、あらたな学問の場が確立されました。まさにポリオとのたたかいの発展線上にあり、平山さんこその新学域です。母子保健学の名を冠した講座はその後琉球大学にも新設され、今後の発展が注目されています。
 平山名誉教授は、今年四月の退官記念の最終講義で、満堂の学生、研究者を前に、ポリオとのたたかいの今日的意義を厳密に総括し深い感銘を与えました。
 平山さんのいうポリオとのたたかいの意義を次にのべておきます。
 第一に、それは生ワクチンによる伝染病予防の原点を築いたことです。つまり、今やウィルス伝染病の予防は生ワクチンが主流となりましたが、ポリオ生ワクチンは、初めて人間が計画的に弱毒化に成功した生ワクチンであり、かつそれによって目的的にウィルスに完勝した第一例であったことです。
 その点では、たまたま手に入ったといえる経過をもつ天然痘の種痘のようなものとは区別されます。天然痘の種痘はイギリスで古くから知られていた、牛痘の罹患者が天然痘にかからないという経験をジェンナーが活用したものです。人間の手によって意図的に生産されたものではありません。ポリオ生ワクチンのその大量投与による根絶の成功は、人間のつくり出す生ワクチンによってウィルス伝染病に克てるのだという実証を初めてみたことであって、このあとハシカ、風疹、水痘、オタフク風邪などの生ワクチンが相ついで実用化されることになったわけです。
 第二に、ポリオ生ワクチン以後、日本に本格的なサーベイランス〈疫学的追跡調査)が実施されるようになったことです。
 一九六一年夏、一気に二千七百万人のこどもに生ワクチンの緊急投与が行なわれて以来、今や毎年、じつに九五%以上という驚異的な実施率がつづいています。これは、私自身にとってもまさに驚異的な誤算≠ナした。
 そしてこの巨大な実施率を背景に、精密なサーベイランスがつづけられていることが、極めて大切なことなのです。サーベイランスは、第一にこの生ワクチンについて効果と安定性の確認、第二にポリオの類似ウィルスの生態のフォローという二点について行なわれています。平たくいえば、ポリオが本当になくなったか、それによって他のウィルスが別の病気をつくらないかを、正確に調べつづけることです。
 それには、毎年、健康児の便から二千検体を採って検査をする。何年かおきに年令別の抗体検査をする。ポリオ類似の患者を検査する、という三種類のサーベイランスが実施されているのです。このサーベイランスは、さきの多ヶ谷論文でも「他の諸国に比べて最も完全に近い形で行なわれていることを誇りとするに足る」と書かれています。関係者のご努力には声を大にして敬意を表すところです。これによってこそ、私たちはいま胸を張って世界にただ一つ、日本列島にはポリオ野性ウィルスが存在しないことを誇れるのです。
 第三に、というのは私のつけ足しなのですが、もう一度整理して強調しておきたいのは実施率、つまり生ワクチンをのむこどもの数のことです。
 二十八年前、NHKに提出した「ポリオ根絶キャンペーン計画」の結びに私はこう書きました。
 「いま、ポリオの名を一人でも多くの母親に知ってもらいたい。そして一日も早く、母親たちがポリオの名を忘れてしまえる日を迎えたい」
 忘れるどころか、母親たちはどの伝染病よりも熱心にポリオ生ワクチンをこどもにのませるために足を運びます。
 厚生省の集計した右ぺージの数字をみてください。
 この高い実施率は、ハシカの七〇・四%、風疹の七二・二%、インフルエンザの六一・○%、日本脳炎の五三・五%と比べて、いかに驚異的≠ネものであるかがわかります。
 ポリオ生ワクチンをのむために、母親がこどもをつれていったのですから、この数は母と子で二倍になります。いっ時の危険が去って忘れるどころか根絶の日を迎えてもなおポリオとのたたかいの熱意をもちつづけてくれた母親たちの大群が、予想もしないデータをつみ上げ、目にみえぬ世界史的な偉業を再確認させるところまで築き上げてくれた、といえるのです。
 もう一つ、つけ足しておきます。
 これは、当時ポリオチームの一員として私を扶けてくれ、いまNHK解説委員の田畑彦右衛門氏の強調する意見です。
 ポリオキャンペーンは、テレビをつかった最初のケースであり、テレビ史の側からみても、テレビキャンペーンの効用を認識させた幕明けの第一ぺージだった、ということです。
 テレビ史といえば、このときはテレビが出現して八年目。白黒がようやくカラーテレビにかわる時期。一気にテレビ時代が開花する東京オリンピックは、この生ワクチン一斉投与のあと三年目。「テレビ五輪」とよばれました。
 田畑氏によれば「テレビ創生期を雷鳴のとどろくように先駆けて走り抜けた」のがポリオキャンペーンで、それがテレビの創生期をつくり出し、創生期なるが故にキャンペーンの独走を許したというのです。
 「今なら、上田記者の書く原稿が、毎晩七時のニュースに出っ放し、なんてことはありえませんよ」と田畑氏は笑います。今のテレビはすっかり機能化され定型化され雷鳴≠ナはどうにもなりません。ニュースは曜日ごとに縦に分担されていて横に串刺しにするなどは考えられません。たしかにあのとき、コピー機という新兵器が生まれなければキャンペーンはNHKの内部で凍死したであろうと私は思っています。ニュース原稿は黒いカーボン紙を三枚重ねて鉛筆に力をいれて書いていた時代です。毎晩「ポリオ情報」を書き、新兵器でコピーし、深夜のうちに局内の各室に配りました。それがカーボンをこえる飛躍的な情報伝達手段であり、NHKの情報と意志統一をつくり出しました。逆にいえば毎日のコピー一枚が手さぐり時代のテレビ局を引っ張ることができた時期だったのです。
 今や当時と比較にならぬテレビの成長ということでありましょうが、あの時代でも「厚生省の方針を超えるようなキャンペーンは反政府的」 「流行を抑えることができたのになお根絶を謳い、サーベイランスにつき合うのはジャーナリズムの枠を超える」とついにポリオチームが解散させられた事情を想えば、権力追従の姿勢が一層際立つと批判されるNHK体質のなかで、創生期ならではと思われることが深くあります。
 テレビの影響は別な意味で、かつては考えられないくらい強大になっています。テレビを握るものは誰か、という問題はひどく政治的になっています。テレビ論としてポリオキャンペーンはテレビとは何かをあらためて現在にむかって問いかける意味をもつという指摘を、テレビ局の中の真剣な声としてつけ足しておきたいと思います。
 それはともあれ、この情報洪水のマスコミが、驚くべき九五%の実施率を二十年もつづけている母と子の大行動とその成果を全く見落としていることは指摘しておくべきことでしょう。
 こうした経過のなかから、問題点もまた浮き出してきました。
 一つ指摘したいのは、前掲の厚生省の資料に、一九七四年以前のものがないことです。あの歴史的な一斉投与は一九六一年ですから、それからなんと十四年分の資料が厚生省にないというのはどういうことでしょう。これは資料をとろうとしなかった行政の怠慢としか言いようはありません。しかし、責めることのできない行政の限界というべきかもしれません。もともと行政は根絶を目標としていなかったのですから。ポリオを忘れたのは行政でしたが、それにもかかわらずポリオを忘れぬ母親たちの熱意がその限界をつき破ったという理由がここにあります。
 次に、長いサーベイランスの結果から新しい問題点も生まれています。
 いま日本で生まれるこどもは、生後三ヵ月から一年六ヵ月の問に、T型、U型、V型の混合ワクチンをのみます。かつてはシロップでスプーン一杯でしたが、いまはスポイト一滴ですみます。ところが最近の抗体検査でT型とV型の免疫が不十分ではないかという数値が出て懸念されています。今後日本の根絶を保障していくためには、今の二回を三回にして小学校入学前に九五%の実施率にすることがベストではないかと検討されているのです。
 この点は私から近く国会でとり上げることにします。

  ■ 年次別ポリオ対象人員実施人員・実施率
 年 次
 
回数
 
対象人員
  千人
 実施人員
   千人
実施率
  %
1974
 
昭49
 
第1回  1,941   1,675.876   86,3
第2回  1,941   1,546,668   79.7
1975
 
 50
 
 〃  2,116   1,644.901   77,7
 〃  2,116   1,525,375   72.1
1976
 
 51
 
 〃  2.132   1,560.547   73,2
 〃  2,132   1,409,032   66.1
1977
 
 52
 
 〃  1.822   1,638.608   89,9
 〃  1,822   1,529,861   84.0
1978
 
 53
 
 〃  1.875   1,576.474   84,1
 〃  1,875   1,482,737   79.1
1979
 
 54
 
 〃  1,913   1,590,807   83,2
   1,913   1,469,509   76.8
1980
 
 55
 
 〃  1,901   1,603.137   84,3
 〃  1,901   1,524,549   80.2
1981
 
 56
 
 〃  1.534   1,514.220   98,7
 〃  1,534   1,460,964   95.2
1982
 
 57
 
 〃  1.527   1,503.002   98,4
 〃  1,527   1,450,807   95.0
1983
 
 58
 
 〃  1.471   1,473.911   100,0
 〃  1,471   1,398,479   95.1
1984
 
 59
 
 〃  1.471   1,446.809   98,4
 〃  1,471   1,396,321   94.9
1985
 
 60
 
 〃  1,500   1,414.830   94,3
 〃  1,500   1,385,099   92.3
1986
 
 61
 
 〃  1.427   1,370.174   96,0
 〃  1,427   1,336,659   93.7
(注・保健所運営報告による。対象人員は人口問題研究所の推計人口による。)
(編注:西暦は原書では「74」のようにあるが、ここでは1974のようにした。)


 
     V
 
 ポリオ根絶は、じつに多くの方がたのおかげだと書きました。 初版のとき、たくさんの方がたからお言葉をいただきました。この機会にご紹介し、謝意の一端にしたいと思います。心苦しいのはほんの一部の方がたに限るしかないことです。おゆるしください。
 
         アメリカ シンシナティ大学教授・生ワクチン発明者
         アルバート・セービン
 日本はポリオ根絶に成功した唯一の国であり、それはウィルスとのたたかいの人類の歴史の中で、甚だ稀な事例となるだろう。
 私の喜びも限りないが、日本の友人諸君の幸せな気持も想像できる。とりわけ世論の構成に大きな役割りを果たしたNHKジャーナリストに祝福の言葉をおくる。
 ソークワクチンでは患者の数を減らすことはできても根絶することはできなかった。一九六一年に日本のワクチンヘのいっせい切りかえをおこなったことは非常に正しく、注目すべきことだった。生ワクチンをつくり出した私としては、聖書の「誇るものは滅ぶ」という教訓を思いおこして、今後も毎年新しく生まれる子供に生ワクチンの投与を継続することをすすめておきたい。日本の友人たち、粘りづよい努力、リーダーの上田哲さん、心からおめでとう。
    (一九六七・九・二六 ニューヨークの旅先にて)
 
         当時−厚生大臣 古井喜実
 厚生大臣になったころ、火事場に飛び込んだも同然だった。小児マヒとの対決は、真剣勝負だった。役所から抜け出して、日枝神社や愛宕山や浜離宮などをさまよい歩き、なんにち考え込んだか判らない。やろうと決心し、自ら声明文を書いた。よかった。日本からこの悪魔を退治することができた。世論がそうさせたのである。
 
          当時−厚生省公衆衛生局長 
          前・国立小児病院長    尾村偉久
 輸入薬品検定法規と生ワク有毒化を危倶する学界。一方目前のポリオ多発の恐怖から即時使用を渇望する母親達。両者に挾まれた頃から、キャンペーンに勇気づけられて古井厚相と共に一挙に大量使用に跳躍した三十六年七月。ポリオのない現在の小児医療にたずさわりながら、夏を迎えるたびに感謝と共に思い出す。
 
          当時−厚生省防疫課長 高部益男
 当時六月の前半でNHKがポリオ患者千人突破で勝負をかけたことであれほどの騒ぎとなり、行政は完全にキャンペーンに先をこされた。そして、あのモブ(暴民)の様な勢いで組織された母親が行政のスピードアップを促進し、普通ならこえてはならない段階や手順をとびこえておしすすめたのだ。
 
          当時−厚生省防疫課技官 
          現在−東海大学教授   春日斉
 ポリオこそは行政と学問とキャンペーンが一体となって根絶し得たただ一つの疫病である。当時われわれがいきづまっていた行政の手順や先例という厚い壁が、マスコミによってぐいぐい押し切られていくのを感じないわけにはいかなかった。その歴史の中で上田哲氏と共に一つの歯車になり得たと信じている。
 私はいつまでもこの追憶をもちつづけるにちがいない。
 
          イスクラ産業社長 石川士郎
 生ワク獲得のたたかいに敗れることは私個人にとっては倒産を意味しており、必死であった。はじめは、生ワクチンの時代はまだ三年あとだとみていた。しかし世論の中で、自民党議員までが「生ワクに反対しているのは一部の薬業資本家、官僚、政治家にすぎない」といったのを聞いた時、ああ、この戦いは勝ったと思った。マスコミの良心に敬意を表す。
 
         当時−日本生ポリオワクチン研究所事務局長
         現在−同                 照山虎寿
 生ワクによるポリオ根絶という国民の要望に答えるため、涙をのんでソーク体制にきりかえ、心血をそそいで作った国産第一号ワクチンが合格した時の感激を忘れることができません。こんな歴史的事業にたずさわる機会を与えられた私は果報者でした。最近台湾のポリオも日本方式により根絶寸前にあるという報告が届きました。
 
          当時−NHKポリオチーム 
          現在−同・総務局     石井三郎
 今でこそNHKはじまって以来の成果と讃えられているポリオキャンペーンも、じつは周囲の理解を得られず長く足踏みをしていた期間があった。ポリオの根絶という卓抜した理念を打ち立て、これを全社会的な公衆衛生行政の中で実現していこうという発想は、当時のわれわれにとってひとつの「革命」であったのだ。この革命は「根絶」にかけたひとりの男の疲れを知らぬ活動とコピーの洪水のなかで、全国のNHKに浸透していった。厚生大臣がついに生ワクチンの一斉投与にふみきった夜、その男哲ちゃん≠ヘ、インクに染まったこぶしで私の肩をどんと叩いたものだ。「莞爾」とは、その時の笑顔をいうのだろう。
 
          当時−NHKポリオチーム
          現在−同・解説委員    田畑彦右衛門
 毎日上昇の一途をたどっていた社会部のポリオ発生グラフの赤い線がついに下向きに折れた日、線を書きこむ赤いマジックインクがふるえた。これほどまでにとは信じられなかったのだ。まぎれもなく歴史の事実がそこにつくられていくのを感じないわけにはいかなかった。そしてひたすらに、学問のみを信じ、偏見や雑音を乗りこえてポリオにうち勝ったひとりの男をそこに見た。
 おれも記者だ。いつの日かこの男に迫る仕事をしてみるのだとひそかに心に決めたのだ。
 
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 初版の「あとがき」に私はこう書いています。
 「前にむかって私は書こう。ポリオの根絶が終わりではなく出発だという意味は、この勝利ははじめてこの国の予防医学の社会的開花を意味するだろうからだ。長い時間をかけてきた「こどもの城」のプランニングが完成し、今私たちの間で具体的に動き出そうとしている。「ゆりかご」以前の母と子の完全健康管理を実現して、十五年後にはハシカも日本脳炎も先天奇型も、すべてのこどもの病気を根絶しようという運動だ。ダイヤルを回したらパトカーや消防車ではなくて、みどり色のこどもの車がオルゴールを鳴らしてとんでくるという健康社会。それをめざしてまた医者と記者のグループが、ポリオの次の感動を味わうために目を血走らせている。だれかがいつかそのことを書くだろう。」
 一九七三年十月、私はこの考えをまとめた著書『こどもが危ない』(上・下巻、徳間書店)を刊行しました。後輩のNHK社会部の記者諸君が目を輝かして協力してくれました。
 それから十五年後、ハシカも日本脳炎も先天奇型も、すべてのこどもの病気の根絶も、まだ果たされていません。オルゴールを鳴らして走るみどりの車も夢みる話の域を出ません。しかし、この一本道に実を結んだ夢もあるのです。
 「こどもの城」建設はその一つです。
 「こどもの城」のプランというのは、一九六四年秋、私がヘルシンキのこども専門養護施設「チルドレン・カースル」を訪れ、そのすすんだ内容に感心して、日本にもぜひつくろうと、その名称を直訳して運動のタイトルにしたものです。チルドレン・カースル自身はリハビリが主体で、私たちがめざす予防のための施設ではないのですが、こども本位に徹底したあり方がすばらしかったのです。たとえば収容人員こども五百人に、なんとナースが五百人です。内部は体の不自由なこどもたちがまるで町なかで生活しているように店や道路や郵便局までつくられており、外の広場には本物の機関車が乗り入れられて、こどもたちがよじ登って楽しそうに遊ぶのに目をみはりました。
 ここから発足した私たちの「こどもの城」の会には、これまた多くの学者や、全国各地のすぐれた医師、研究者たちが参加してくれました。この中には国立病院の運営に反発して部長職を辞め、あえてその病院の前に自分の思いどおりの小児クリニツクを開業した医師や、長野県の佐久地方でたった一人の小児専門医、会合のたびに必ず上京してくれる尾道の小児科の女医さんなど個性的で魅力に溢れた人たちが集まっていただきました。医師ではなくて「人間に屑はない」の名小学校長・金沢嘉市先生も積極的に参加されました。過分にも私が会長に推されました。
 「こどもの城」の会は何回ものシンポジウムを重ねました。こうしたなかから生まれたのが「小児予防医学システム」で、私たちはこれを今日までの教典としています。
 「こどもの城」の運動は決して建物をつくることが目的ではなく、こどもの病気のすべてに克つこと、そのために生まれる前からの健康づくりの医学と思想の確立をめざすものですが、シンボルとしての施設「城」も不可欠で、これには莫大な予算が必要なため、私は国会の場で執拗にその実現を求めました。
 このため私は初当選後、社会労働委員会に所属し、当時の斉藤昇厚生大臣にこどもの城の趣旨を説き、「ゆりかご前の健康」の垂れ幕を厚生省の壁面に掲げよと迫ったりしました。
 一九七三年四月十日、衆議院予算委員会は一ヵ月前から継続してきた新鋭戦闘機F4EJファントムの空中給油装置が専守防衛を踏みはずすという私の指摘の決着で最高に緊迫していました。私は田中角栄首相と全力の論議を詰めます。ついに田中首相はファントム一二八機全機から空中給油装置をとり外すことを約束しました。この息づまる緊張の中で僅かな残り時間に私は「国立小児医療センター」問題をもち出しました。国立ガンセンターと同列に、全国ネットの中核として今の国立小児病院(東京・世田谷区太子堂)を小児医療センターに格上げ充実せよという年来の主張です。
 ファントム戦闘機との抱き合わせとは奇妙なことですが、気合いというもので、このとき田中首相が「エイ、わかりました」と約束した一言で、全国センターの前提となる小児医療研究センター建設費二十八億円の予算化が決まりました。軍事費と医療福祉との取り合わせは一種暗示的で、私は「戦闘機一機の片翼だけでこどもの病気がなくせるのだ」と叫んだものです。
 国立小児医療研究センターの開所式には、歴代厚生大臣と並んで私も招かれ、私はあのときの議事録を読んで祝辞をのべました。
 国立の施設として「こどもの城」が東京・青山に完成したのは一九八五年九月です。十月二十二日の開館セレモニーにはここでも歴代厚生大臣が十人も並びました。政府が野党議員の提唱する名称を国立施設に採用するのは稀有のことで、その名の刻まれた正面石碑の前で私は感慨にふけりました。
 工費二百三十三億円、三年十一ヵ月をかけたこどもの城は、地下四階、地上一三階、延べ床面積四万一千平方メートル、五階の小児保健クリニックを中心に、プール・落書き室・図書館・劇場など。これまでに二百六十万人の入場者を迎えています。
 この年の秋、私は二十一年ぶりにヘルシンキのチルドレン・カースルを訪ねました。「この小さな種子が日本で花を開いたのですね」と歓迎してくれた婦長さんは当時のことをよく覚えていました。手焼きのクッキーをすすめてくれながら「あなたが紹介の文を書いてくれてから日本からの見学者が増えたのです」と嬉しい報告。
 広場には、当時のままの機関車がありました。一九四八年の開設以来の分厚い来訪者サイン帳に、二十一年前に私がサインした小さな筆跡をみつけました。今度は二ページ分いっぱい書いてくださいとすすめられ、私は感動を綴りました。「フィンランド語に翻訳して記念にします」と婦長さん。満たされた一日を味わうことができました。
 
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 今や日本は、ポリオ生ワクチンを輸出する国になりました。ポリオだけでなく、すべての生ワクチンについてすぐれた先進国です。それは予防医学の前進について日本が大きい国際的使命を担うことになった位置を示しています。
 その一つを報告しておきます。
 一九八五年二月二十三日、私は衆議院予算委員会で次の指摘をしました。
 「アジア、アフリカ地域で、しきりに飢餓の悲惨が訴えられ、年間五百万人のこどもの死が報じられている。
 じつは、この不幸が飢餓とのみ説明されているのはきわめて正確でない。実際は伝染病の感染症による死亡なのだ。私の認識ではそのほとんどは、ハシカ・ポリオ・ジフテリア・百日咳・破傷風・結核の六種類のワクチンで防ぎうる。その六種類のワクチンを供給できるのは日本なのだ。政府は直ちに実情を調査し適切な援助を行なうべきだ」
 珍しいことですが、この席で、竹下蔵相、安倍外相、増岡厚相、松永文相が揃ってこれに同意し、それから一年間、各省が協力し、学者(福見秀雄座長)を中心に「感染症対策協力研究会」を設立し、深井孝之助(阪大微生物研究会理事長)団長らの四次におよぶ調査団を現地に派遣して調査に当たりました。
 研究会は一九八六年一月、報告書を作成しました。報告書は次のように経過を記しています。
 「昭和60年2月23日衆議院予算委員会において、上田哲議員から開発途上国の死因の8割は感染症であり、わが国の優れたワクチンを用いた協力を行えば効果が高いので、この分野の国際協力に力を入れる必要がある旨の指摘があり、これに対し外務大臣及び関係大臣より積極的に取り組んで行く旨の答弁があった。
 上記討議を踏まえて、60年7月「感染症対策協力研究会」が設置され、合計7回の会合の後、61年1月「感染症対策国際協力に関する報告書」を完成した。その後同年2月22日同じく衆議院予算委員会において上田哲議員は本件報告書を紹介するとともに、同報告書への対応ぶりにつき政府の見解を質した。これに対し、外務大臣より報告書に盛られている内容、提言を今後の施策に充分生かし、具体化していくのが国の責務であるので、61年度に先進諸国並びに開発途上諸国に調査団を派遣し、感染症対策協力に関する実態調査を実施したい旨答弁を行った。」
 そして報告書は次のように結論を明確にしました。
 「アジア・アフリカで毎年五百万人が感染症により死亡、五百万人が失明など重い障害を残す事態が確認された。日本の六種類のワクチンを供与することは極めて有効である」
 この報告書をもとに、一九八六年二月二十二日私は衆議院予算委員会で次のように政府の対応を求めたのです。
 私はこの一年、政府の珍しく早い対応を率直に評価しました。そして「六種類のワクチンは一人分約千円。五百万人で五十億円。こんなに適切な国際協力はない。速やかな決断を求める」と迫りました。「検討」の答弁をくりかえした今井勇厚相は最後に「それでは、とりあえず百万人単位で協力する」と約束しました。
 六種類はいうまでもなくすべて予防生ワクチン。そして今やそれを他国に供与できる日本となったことに、私なりに二十年の道のりを思ったことでした。
 さて、行政相手の仕事は、これで安心していることはできません。本年(一九八八年)の三月十日、衆議院予算委員会でその後の努力の実績を質しました。
 少しがっかりすることですが、これだけの経過にもかかわらずワクチンの供与はほとんど進んでいません。答弁によると現地ではワクチンの冷凍保存設備(コールドチェーン)をまず整備しなければならないこと。ワクチン投与に伴う基礎教育などが先決であることがわかった段階だといいます。ワクチンの実際の供与は、今のところスリランカ、ネパールなどに、それも災害援助という形で三千六百万円分が送られただけであることがわかりました。
 ところが、がっかりするばかりではありません。
 近ごろ、全国のロータリークラブで「ポリオプラス運動」という運動がさかんなのだそうです。これがアジア・アフリカのこどもたちにワクチンを届ける募金活動だときいてびっくりしました。「必要なワクチンは六種類だそうだが、われわれにはポリオがわかりやすいので、ポリオ・プラスと呼んでいるのです」ときかされて、もう一つびっくり感激しました。ロータリークラブでは、フランス料理を食べたことにしてライスカレー一杯でその差額を募金にあててくれたり、さまざまな工夫をこらしワクチン資金をつくってくれているのだそうです。思わぬところでやってくれているのです。嬉しい話です。元気も出ます。
 むつかしく、長い道のりですが、ぜひこの道を推し進めていかなければならないと思っています。
 
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 書いていけば、きりのないほど多くの報告があり、課題があり、感謝があり、忘れがたい人びとがあります。すべては燃えつづける焔の色の中にあり、思い出は鮮烈です。
 ポリオキャンペーンの出発点となった北海道大夕張の炭住街は、石炭産業崩壊のなかでもはや昔日の面影はありません。あの炭住街で忘れえぬのは、斎藤三千男さん一家のことです。肩まで上がらなかった五歳の美紀ちゃんの右手が、やっと上がるようになったときの一枚の写真は田畑彦右衛門記者の傑作(本書二三〇ぺージ)として私の脳裏に昨日のようにすべての情景をよみがえらせます。このとき母親の喜びをいっぱいにして美紀ちゃんを見上げているトクさんは、この次訪れたときには故人になっていました。会うたびに私を感動させたこのすばらしい母親は、美紀ちゃんの治療費のためきつい仕事の採石場に働きに出て、落石に当たってかえらぬ人となったのです。ポリオの悲惨さ以外の何であろうかと、私は怒りと悲しみのやり場のない想いに沈んだことでした。
 陸の孤島といわれた大夕張で、魔のウイルスから全身をかけてわが子を守りつつ、全国のポリオの子をもつ母親にともにがんばってとよびかけたけなげさに思わず息をのんだ日のことを、私は忘れえません。炭住の飾りのない部屋の壁にたった一枚の写真となって一家を見守るトクさんの眼差しをみつめれば、私たちのポリオとのたたかいなど、いかにも小さいものに思えてくるのです。
 美紀ちゃんは後遺症を克服して、本書の初版刊行のとき、ささやかな友人たちの出版記念会の席に、北海道からピアノを弾きにきてくれました。美紀ちゃんは今年、三二歳になります。
 この記念の席に、ボニージャックスの大町正人さんが来ていてくれたのを私は知りませんでした。私は大町さんと面識がありません。『根絶』を読んで共感し記念の会のことを耳にして手伝いにきてくれたのだそうです。ワイシャツを腕まくりして最後まで会場の椅子の片づけをしていてくれた大町さんと、ここから始まった交友も今につづいています。ボニーの四人が必ず年に一回、僻地の分教場を回ってこどもたちに無料で歌をきかせているのを私は知っています。世の中にはこういう人たちがいるものです。ボニージャックスは私の選挙初出馬のとき上田哲の歌≠四人で吹きこんでくれました。
 初版の思い出として坂西志保さんのことを欠くことができません。評論家の坂西さんはキャンペーン中、ラジオの対談でゲストに私を招いてくださいました。私の主張に大へん理解を示していただきました。この本が出版されたとき、国家公安委員になられていた坂西さんは、「この本を全国の警察官に一冊ずつ配って読ませよ」と強く命じられたそうです。「前例もなく予算もなく、ほとほと困り果てたが、もし実現していたらベストセラーになっていたでしょうにね」と当時警察庁の刑事局長でいま人事院総裁の内海倫氏の思い出話です。内海刑事局長はテレビで私を指さして「この人はポリオはやるが選挙違反はやらない」と名文句を吐いてくれました。
 
 初版のあとがきを、私はこのように結んでいます。
 「世に、いかに情熱を傾けようと、希ったことが実現するのは決して多い例ではない。菲才の私が根絶の日にめぐりあい、しかもそれを上梓しうることは至幸というべきである。」
 この至幸の想いは、ここで二倍に私を疼かせます。
 すべては感動です。
 国会へ送っていただいて二十年を、かなり思うままに歩んできたといえる私に、私なりに一本の道すじをあとづけさせていただけるなら、それはこの道です。二〇歳の小学校教師の日から、記者の日から、政治家としても、私にとって一番深い流れはここにあります。
 この道は果てしなく遠く、たとえようもなくロマンの道、と私には思えます。
 いま、感謝をこめて二十年をふりかえり、さらに情念をこめてこの道を往きます。
 ありがとうございました。
   一九八八年七月七日                               
上田哲  
 
<復刻出版にあたって 終わり>
 
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